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『GOLD』2. dialog and reminiscences

やわらかな寝台の中で、水面を漂うような心地良い微睡みから覚めた。

ゆっくりと瞼を開くと透明な水底に瑠璃をひとかけらだけ沈めたような、限りなく無色に近い色合いの空気が視界に拡がる。
ほんの少し視線を上げれば、障子戸の隙間から真白の光が静かに降り積もり、夜明けの冷やかな空間に優しい熱を淡々と撒き散らしている。

起き上がろうと身動ぎするけれど、気怠い躰は見事な位私の意思を拒絶していた。全身が怠くて、痛い。初めて弓を引いた、あの頃の鍛錬の後のようだ。
朝の空気を吸えば少しはましになるかも知れない。そう思い深呼吸するも何となく喉が閊えてしまう。
そういえば、昨夜は何時眠りに就いたのだろうか。最後に見上げた空の色は、白んではいなかったと思うのだけれど。

滑らかな布地の感触が心地良くて、やわらかな寝台に身を任せていると唐突に喉の渇きを覚え、私は思わず眉根を寄せた。

「……お水……」

ぽつりと洩らした呟きは酷く掠れ、自分の声じゃないみたいだ。
潤いを欲している躰は、けれどもまともに動かない。とにかく何もかもが億劫で瞬きすら重く感じる。
もう少し眠ればいいのかも知れないけれど、その前に喉を潤さないと乾涸びてしまいそう。

「おはようございます。どうぞ、水ですーー起き上がれますか?」

どうしたものかと思っていたら頭上から聞き慣れた声が降ってきた。視線だけ彷徨わせて声の主を探せば寝台横の、丁度私の肩先辺りに見慣れた姿がーー私の呟きを聴き取ってのことだろう、水を継いだ器を片手に佇んでいる。
相変わらず優秀な従者だ。私は苦笑いを浮かべながら既に身支度を整えたハクの姿をぼんやりと眺めた。

昨夜の名残など微塵も感じさせない彼の清廉な出で立ちは、一瞬、あれは全て夢だったのではないかと錯覚させ、けれども躰のあちこちに刻まれた彼の記憶が、そうではないのだと私に言い聞かせていた。
ハクの片腕に背中を支えられ、寝台に半身を起こした格好で器に継がれた水を一口流し込んだ。
喉を伝う冷たい水の触感に思わず身を硬くする。私はゆっくりと少しずつ、冷水を躰に馴染ませるように器の水を飲み干した。

やっと人心地が付いたと息を洩らし、改めてハクを見遣る。何時もと変わらない淡々とした表情と、凪いだ瞳。
向けられた眼差しはとても穏やかで、私への気遣いに満ちていた。それはとても嬉しいことで、不満などある筈がないのだけれどーーちくりと心に棘が刺さった。

深い湖の底で揺蕩うことすら忘れた、只息を潜め沈む水の色を映したような、静謐に過ぎる双眸に宿る昏い焔を昨夜確かに見たと思った、のに。

「……無理。動けないわ」
「そう、ですかーーすみません。でしたら今日は一日部屋で休んでいてください」
「うん……」

申し訳なさそうにそう告げるハクに私はこくりと頷くと曖昧に笑い掛けた。
昨夜のことを端的に考えれば、彼が私を気遣い、多少なりとも申し訳ないと思うのは当然なのかも知れない。そして私は本来なら彼を優しい男だと、喜ばしく思うべきなのだろう。だけど。

「ーーお前、後悔していない?」
「後悔?何故です。何よりもーーそれこそ自分の命よりも大事な女を抱いて後悔などと」
「……そういう、意味じゃなくて。お前、重くはないの?」

ハクの言葉は、昨夜のことを一夜限りの幻と彼が認識している訳ではなさそうで私は少し安心するけれど。

「……私が背負うと決めた覚悟を、お前が背負い返す必要なんて、ないのよ」

煙る紺青の双眸に視線を合わせ告げれば、彼は驚いたように私を見詰め返す。ああ、やっぱりそうなのねと小さな溜息が知らず、洩れた。

「ハク……私の覚悟は、私のものよ」

ぽつりと、けれどもはっきりと彼に告げた。私の覚悟、それは高華一と謳われた『雷獣』を、最早王女でもない私に彼の人生ごと縛り付ける覚悟だ。
きっとこの業は、途方もない重責と罪悪感として私を生涯苛むのだろう。喩え途中で彼が私から離れてしまったとしても。

この人はーー私が手を離せばきっと何処にでも行ける。何にだってなれる。きっと彼に相応しい華やかで賑やかな人生を謳歌出来るのだろう。

それを分かっていて、それでも私は彼を欲した。彼がそれを赦してくれたのをいいことに傲慢な慾に身を投じたのだ。
後悔なんてしていない。これからもするつもりはない。どれほどの重責や罪悪感を感じようと、却ってそれが後ろ暗い、残酷な慾を満たすのだと私はもう知っている。

けれどもハクは沢山の優しい言葉で私の業を引き受けようとする。それどころかこの人は自分の命を盾にしてまで、私が背負うべき覚悟を丸ごと背負い返そうというのだ。

それはとても嬉しいことで、けれども同じ位寂しくて、その選択を狡いと思う。
狡い人だと何度も告げた、昨夜の私の言葉をお前はどう受け取っているのだろう。

「ーー困りましたね。随分と誤解しておいでのようですが」

穏やかな瞳と表情のまま、ハクは小さく笑うと身を屈め私へと口付けた。
優しい、唇を重ねるだけのそれはやがて深いものへと変化していく。
緩やかに誘うような。昨夜の熱を、何処かで今も密かに燻ぶる焔を引き出すような。

ーーあ。
何かが、この人の中で変わったのだろうか。

絡み合う舌の感触に身震いしながらも、昨夜までとは確かに違う彼の様子を思う。
情慾に突き動かされてではなく、私が望んだからでもなく至極当然のことのように私に触れる。これは従者の所作ではないだろう。

「……お前、随分不遜な振る舞いをするものね」
「言ったでしょう、姫さんは誤解なさっておいでだと」

行動にそぐわない清廉な空気を身に纏ったまま、ハクは苦笑を洩らし今度は指先を私の頬から首筋へと滑らせた。昨夜の名残なのだろうか、ぞくりとした戦慄が背中を駆け抜け躰が跳ねる。
ああーー本当に何かが、変わったのか。

「……此処でそんな貌を見せんでくださいよ。ま、朝から盛んのも悪くはねえとは思いますがね、そろそろ『お母さん』が朝飯の仕度に掛かる頃合いなんで」
「さか……!お前どの口がそんな……!」
「はいはい、すみませんね」

揶揄するでも、人の悪い笑みを浮かべるでもなくやわらかな表情のまま、ハクは何も身に着けていないことを慮ってのことだろうか、上掛けごと私を抱き上げた。

「ハク?」
「運びますから、今日は部屋でごゆっくりどうぞ」
「ーー部屋、って」

どくり、と鼓動が一つ胸を打つ。
昨夜何の為にハクの許へと忍んで来たのか思い出し、私は身を硬くしてかぶりを振った。あの部屋には行きたくない。だって私は逃げて来たのだ。彼の隣に立つべき女性の為に設えられたあの空間から。

「……此処に、居ちゃ駄目?」
「姫さん?……や、駄目っつーか、幾ら疲れが溜まったから寝てるったって流石に謝絶って訳にはいかんでしょう。ですからーー」
「嫌、なの」
「……昨日、何があったんです?」

それでもと繰り返す私の様子に只事ならぬものを感じたのか、ハクは私を抱えたまま寝台へと腰を降ろし真っ直ぐに視線を合わせて問うてきた。けれどもそこに探るような色も問い詰める意思も感じられない。
私は小さく息をつき彼へと問いを返す。やわらかな眼差しが、自然と私の言葉を引き出すことを不思議に思いながら。

「ハク……あの部屋は、誰の部屋?」
「あんたの部屋です」
「違うわ。昨日今日のことを言ってるんじゃない。あの部屋は元々ーーお前の妻になる人の為に設えたものでしょう?」

私の言葉に、ハクは驚いたように目を瞠り、それから何とも複雑な表情を浮かべ溜息を洩らす。

「ーーそう、思いますか?」
「……うん」
「でしたら、きっとそうなのでしょうね。あの人は何も言いませんでしたが」
「ムンドクは、きっとお前の将来を……それこそ結婚や後継のことも、とても期待してーーううん、楽しみにしていたのだと、思うわ」

ぽつりぽつりとそう告げれば、ハクが見せる複雑な表情の中に、ほんの少しだけ寂し気な色が浮かんだ。
きっとあの偉大な祖父のことを想っているのだろう。

「あの人は、此処を好きに使えと言っていた。だから好きに使いました。昨日今日の話ではなく、あの部屋はあんたのもんです。この俺が、初めて此処を訪れた時に決めたんです」
「ーーどう、して」
「何時かあんたに、あの部屋からの眺めを見せたかった。勿論そんな日は来ないかも知れない。でももしかしたらーー何時かあんたが王妃になって、子供でも連れて物見遊山にでも来ることでもあるかも知れないと」

ホント、祖父孝行出来ませんでしたねえ。なんて苦笑して、お前は。
そんな不確定な、それもお前に係わりのない未来の為に掛け替えのない祖父の想いを蔑ろにして。

「お前……馬鹿よ」
「忠義者と言って頂きたい」
「その要らない忠義のおかげで、昨夜私がどれだけ葛藤したと思っているの……」

泣きたくなるのを堪え、私は懸命に笑顔を浮かべながら言を紡ぐ。

「私の我儘が、お前やお前の妻になる人や、誰よりもムンドクの想いを踏み躙っているんだって……その上、お前達への申し訳なさよりも、お前の妻の部屋になんて居たくないってーー気が、狂いそうになって。何て私は醜いんだろうって思ったわ。結局自分のことばかりだって……っ」

言葉を重ねるごとに、昨夜私を追い込んだどす黒い感情が蘇り知らず息が詰まる。笑顔なんて到底保てず私は唇を咬み締めた。堪え切れず溢れそうになった涙は、そっと目尻に寄せられた彼の唇が押しとどめてくれたけれど。

「ーーそれで、俺の部屋に?」
「うん……ごめんね……」
「何故謝るんです、おかげで俺はこの上ない僥倖を得られたというのに」

困ったように笑うハクは何処か遠い眼差しでーー逡巡しているようにも見える。

「ねえハク、この家はとても綺麗に管理されているわよね。それはムンドクがお前の帰りを待っているということだわ。お前に寄せる期待も希望も、彼は捨ててなんかいない」

それを私以上に分かっているだろうハクに向かい、私は告げる。泣いてはいけない。あの底なし沼のような感情になど囚われてはならない。本心なのか気休めなのかは分からないけれど、ハクは今もまた私に呪文をくれた。だからもう、大丈夫だ。

そして私が今為すべきことは、彼と同じことなのだと思う。
彼が背負う祖父への罪悪感を肩代わりしようなんておこがましい考えはない。けれど、それもまた私が背負う覚悟の一端だ。

「それを知った上で、ムンドクの想いをお前に踏み躙らせたのは私だわ。だから、私はお前に謝っているのよ」

けれどムンドクに謝ることはしない。それは傲慢に過ぎるというもの。

「ーーあの人は、俺のことなんかよりも姫さんが無事で、笑って生きていくことを願っている筈ですよ」

ふわりと笑い、まるで幼子に言い聞かせるようにゆっくりと言葉を紡ぐハクはとても穏やかで満ち足りた、柔和な光を紺青の瞳に滲ませて。
祖父との確かな絆を、愛情を私へと伝えてくる。

ーー父上も、同じことを願ってくれるだろうか。もう二度と会えないけれど、今も何処かで私達を見守っていてくれているのだろうか。

「ーーそれなら、ハクは不孝者ではないわね。私はお前のおかげで今も無事で、これからも笑って生きていくわ」
「……そう、願います」
「だからハクは、傍に居てね」

小さく頷き、ハクは私の頬から首筋まで、啄むような口付けを幾度となく落とす。何だかそれが擽ったくて思わずやめてと声を上げるけれど、やめるつもりはなさそうだ。そんなこと、今までなかったのに。

ーーやはり何かが、変わったのだ。

擽ったさにくすくすと笑いながら、私は風の英雄を想う。
優しくて暖かな、そして雄大で力強い、豊穣の種子を運び来る風。
私は貴方に謝りはしないけれども。

その代わりに、限りない感謝を。

貴方に出会えたこと。沢山の愛情を貰ったこと。きっと今も私の身を案じてくれていること。
それからーー貴方の孫と共に在れるということ。

どんな形かは分からないけれど、偉大な貴方に報いたい。そのために、私は懸命に生きて笑って、沢山の努力をしよう。
そして何時か必ず貴方に会いに行こう。貴方の夢と、一緒に。

だからそれまで待っていてねと、心の中で私は英雄へと呼び掛けた。




✴︎




壁一面の障子戸を通して、朝の光がやわらかな温もりと共に緩やかに降り注ぐ、大海に面した部屋で寝台に腰掛けさせられた私は、外套のように被された上掛けを胸元まで寛げた。
取り敢えず何か着ないと。そろそろ朝御飯の時間だろうし何時誰かが部屋を訪ねて来るか分からない。

「ハク、私の服は?」
「ああ、部屋着なら箪笥に入ってんじゃないすかね」
「……昨夜は考えなかったけど、それ誰の服よ」
「だからあんたのーーてか姫さん、あんた昨夜から色々と絡んで来やがりますね。それとも何すか、誘ってるんですか?」
「誰がよ!じゃなくて何でそうなるのよ!」

思わず声を張り上げた私に、ハクは普段通りの戯けた笑顔を浮かべる。こういった遣り取りは昨日までと変わらなくて、憤りを顕にしながらも私はとても嬉しく思う。長い間に培われた気安い関係性は不変のものだと感じられ、酷く安心するのだ。

「何でって……そんな可愛いこと言われたら誘われてるって思いますよ普通」
「そんな普通海に沈めてやる!」
「そうっすか、それは残念。忠義者としては是非ご期待に添いたいと思ったんですがーー」
「一刻も早くその口を閉ざすことを期待しているわーー、……ハク?」

唐突に口を閉ざしたハクに驚きーー閉ざせと言ったのは私だけどもーー首を傾げ名を呼んだ。この人はこういった下らない遣り取りにおいて、素直に私の言葉に従うような可愛気のある男ではなかった筈だ。
非常に気不味そうな表情で私を凝視するハクに向かい、もう一度問い掛ける。

「ハク、どうしたの?私に何か付いてる?」
「……、すみません姫さん、昨夜……馬鹿な真似をーー」
「……お前、何……したの」

無性に嫌な予感がして、私は徐に立ち上がると上掛けを引きずりながら覚束ない足取りで黒檀の鏡台へと向かった。この小さな調度に振り回された昨夜の重苦しい気持ちが一瞬胸を掠め少し怯むも、これは私の物なのだと自分に言い聞かせ鏡の前で奮い立たせた足を止める。

「ーーっ!」

鏡に映る自分の姿に、私は思わず息を呑んだ。

まるで昨夜私の身を焦がした焔がそのまま灼き付いたように胸元に散る、幾つもの紅い痕。
こんなものが残せるなんてと感動を覚えた私は目を瞠り鏡を見詰めるけれど、問題はそこではなくて。

「ハク!お前これ……どうしてくれるのよ!」
「ーーすみません」
「謝罪はいいからどうにかしなさい!」

大半が髪で覆われてはいるものの、くっきりと首筋に刻まれた咬み痕。これは流石に隠し通せないし言い訳も出来ないだろう。
皆、見て見ぬ振りはしてくれるかも知れないけれど、そういう問題じゃない。

「……取り敢えず街で巻き物でも見繕って来ます」
「ーーそうして頂戴」

溜息を洩らし、私は手渡された部屋着を身に纏うと再び寝台へと腰を降ろした。
ハクは私に触れるでも近付くでもなく難しい表情でその場に佇むばかり。大方自分の失態の責任の取り方でも考えているのだろう。それとも何か、不敬罪にでも処して欲しいのだろうか。

ーー呆れたものね、お前も……私も。

本当に呆れたものだ。こんな咬み傷を残されて、対処に困りはするけれど決して嫌だとは感じない自分はもう、どうしようもないのかも知れない。

「……私、少し眠るわね。朝御飯、ごめんねってユンに伝えておいて」
「はい。午後にまた、来ますから……」
「ーーハク」

何処となく硬い表情で私の言葉に従おうとするハクを呼び止め手招きする。忘れていたわ、この人には言葉が必要だということを。

「今夜は、此処で眠れそうだわ」
「それは……何よりです」
「うん。だからーー今夜はハクが、会いに来てね」

気に病む必要はないのだと言外に告げ、私は目の前に佇む彼に笑い掛けた。
一瞬、驚いた様子で私を凝視した後、一体どんな心境なのか……少し迷うような、途方に暮れたような趣で。

「ーー御意」
「お前……!もういいわよいっそ締め出してくれるわ!」

私の心を逆撫でしてまでそんなに咎を受けたいのかと思わず声を張り上げた私へと、ハクは本当に困ったように、戸惑いを隠すこともせぬまま言を紡ぐ。

ーーハク、お前もしかして。

「……すみません。ちょっと、そのーー」

言葉を探すように視線を彷徨わせながら、何かを言い淀む様子のハクは結局それを打ち切って、それから。
紡ぐ言葉の代わりだろうか。彼の腕が伸びて来て私はふわりと抱き締められた。
緩やかに優しく降り注ぐ、この部屋を暖める障子越しのやわらかな朝の光を思わせる、厳かで静穏な抱擁。

……ああ、きっともう、大丈夫。

「まだ、言葉が欲しい?」

彼の腕の中でそっと尋ねれば、いいえ、と低く囁くような声が耳朶を打つ。
ふふ、と笑い私は重い瞼を閉じた。微かに聴こえる規則的な彼の鼓動がまるで子守唄のように心地良く響く。

「不思議な人ね、お前。私の業を引き受けようと自分の命まで盾にするくせにーー私に触れられるのは、怖いの?」
「ーー怖い……そうですね、そうかも知れません」

冗談めかした私の問いに、意外と素直に是と答えたハクはそういえば、と続ける。

「姫さんの中で、俺は随分殊勝な男なんすね」
「……違うの?そういえばさっき、誤解してるとか言っていたわね」
「いえ、折角なんで誤解なさっていてください」

さらりと衣擦れの音を立て、ハクは私からゆるりと身を離すとやわらかな、それから戯けたような笑顔を見せた。
何時もの彼の笑顔が、とても眩しく感じるのは何故だろうか。

何時もと同じだから、なのだろうか。

「姫さん、また後で」
「ーー狡いわ。教えてくれたっていいじゃない」

ゆったりと足を踏み出し部屋の扉へと進むハクの広い背中に向かい、ぽつりと呟きを洩らす。独りごちたつもりだったけれども、私の呟きはしっかりとハクの耳に届いていたようで。
扉に手を掛けたまま彼は振り返ると、やわらかな光を湛えた紺青の双眸を細め、優し気な微笑を私へと向ける。
そうして彼は、何時も通りさらりと躱すのだ。

「秘密ですよ、姫さんーーお休みなさい」





緋龍城の私の寝台の感触によく似た、滑らかな布に包まれて私は重い瞼を閉じる。

次に目覚めたら、白く煙る空の果てと煌めく海の境界線をまた、見ることが出来るだろうか。眩しく光る大海に浮かぶ船の行方を、追うことが出来るだろうか。
日が沈む頃には、黄金色に滲むこの小さな世界で、ふたり同じ色彩に染まることが出来るだろうかーー

そんなことを取り留めもなく思いながら、私はゆっくりと浅い眠りに身を委ねた。










✴︎










大地との境界に迫るほどに白く霞む、だが何処までも澄み渡る空を見上げる。
空色、という名の通りこの蒼白を他の何かで喩えることは出来ない。

ぽかりと浮かぶ白い雲に向かい、隣から華奢な腕が空へと伸びた。

「ーー届かないわ」

爪先立ちで懸命に全身を伸ばし、浮かぶ雲を掴もうとする彼女の姿が何だか幼子のようで、それは何とも可笑しく思えるのにーー封じた筈の心が騒ぐ。

「そりゃまあ、雲ってのは随分と上空にあるモンですからね。山脈の頂にでも立たねえ限り触れることなんて無理っすよ」

(ーーあんたと、同じですよ)

まるで己に言い聞かせるような科白だと、俺は小さく肩を竦めた。
ああ、雲のがマシか。あんたは遥か上空に居ながら同時に俺の隣にも立っている。手を伸ばせは容易く触れることの出来る場所に。

「ふうん……じゃあハク、私を山脈の頂まで連れて行ってよ」
「ーーあのな」

随分と簡単に、ふざけたことを言ってくれる。
俺は山脈の頂には登れない。登ることは決してない。ただ一人だけが立つことの出来る場所であんたに触れるのは、俺の役目では、ない。

「そういうのはスウォン様にお願いしてくださいよ」
「ハク、私はお前と一緒に行きたいのよ」
「……はあ、それはどーも」

こうもきっぱり宣告されると何だか妙な気分になる。これは登山の話だなんて、分かってはいるけれど。

綺麗な景色が観たいと何時もの我儘を振り翳されて、仕方なく連れて来た物見櫓に難なく登りーー登れない振りでもしろよ!あんた王女だろーー能天気に空を見上げる幼馴染をちらと見た。
風を受けて靡く、長く波打つ紅い髪は眩しいばかりの日差しを浴びて、まるで燃え盛る焔のようだ。
仄かに薫る清涼な花の芳香に誘われて俺はそっと彼女の髪に触れた。

「ハク?」
「ーーいえ、何でも」

前触れもなく己の髪に触られても彼女は怒るでも驚くでもなく、ただ不思議そうに俺を見上げた。
こんなにも無防備な姿を惜し気なく晒されるのはとても嬉しく、だが酷く切ない。

(ーーやっぱり、雲のがマシだ)

適当に言葉を濁し、俺は南東の方角へと向き直ると遥か遠く、白く霞む空の端を眺め遣った。此処からでは煌めく海も、彼女が好む極彩色の石を撒き散らしたような、鮮やかな街の姿も見えないけれど。

「山脈の頂には登れませんが、水平線なら何時かご覧に入れて差し上げますよ」
「水平線?」
「大海の果て。海と空とがぶつかり合うところです」
「ハク、お前空を翔べるの?」
「ーーまさか。水平線は海岸から眺めるもんですよ」

突拍子もない発想に瞳を輝かせる幼馴染に、自嘲交じりの苦笑を洩らし再び故郷の空へと視線を送る。
すると彼女もまた、どんな宝石よりも余程多彩な輝きを放つ紫紺の瞳に同じ空を映し出した。

こんな些細なことに途方もない快感を覚えるなどと、酷く馬鹿げた話だろう。
それから俺は馬鹿げた話ついでに、ほんの少しだけ詮無きことを思う。

もし本当に俺が空を翔べたなら、何処にだってあんたを連れて行こう。
前人未踏の険しい山の頂でも、空と海の狭間でも。
遥か彼方に横たわる、水平線の更に向こうのーー見たこともない最果ての地までだって構わない。

(ーーそん時此処に戻って来る気になるか、分かんねえけど、な)

夢見ることを赦されぬ相手にそれでも夢を見る。それは酷く滑稽なことだ。

我ながら情けないものだと自嘲しながら故郷の海を思い描く。
夕暮れ前の、黄金色に染まる海と空の境界線をあんたに見せたいと確かに思うーーけれど。

「ーーじゃあ連れて行って、ハク」

不意に腕を引かれ、請われる。逡巡する思考が凛としていながらも甘やかな声音の前に霧散した。
これは命令ではなく請願だと、疑う余地もないままに彼女の言葉が腹の底に落とし込まれるのを、俺は不思議な心持ちで感じていた。

「ーー姫、さん」
「ハクが夢見るような景色を、私も見てみたいわ」
「夢……?何故ーー」

謳うように告げられた言葉に目を瞠り、俺は思わず隣に佇む彼女を凝視した。
普段とは幾分異なる趣の、柔和な微笑を湛える彼女の見慣れた筈の紫紺の双眸に宿る光。それはまるで彼女こそが夢の中を漂っているかのようで。

「何故ってーーハクが、夢見るような瞳をしていたからよ」

ーーああ、あんたは……同じ、夢を。

ぞわり、と粟肌立つような感覚が全身を支配する。それを咄嗟に封じ込め、俺は彼女に言い聞かせるように語り掛けた。
さも俺があの光景に、海と空との境界線に夢を見ているかの如く。

「ーーとても、綺麗ですよ。眼前に拡がる空と大海は不変を思わせる……本当に、圧倒されます」
「素敵ーー素敵ね、ハク。きっと心が洗われるような、胸を打つ光景なのね」
「そうですね……」

未だ見ぬ景色に心を馳せる彼女の蕩けるような瞳の光は、普段彼女が見せている綺麗なもの美味いものを、それから彼女の想い人を眺める時のそれとは似ているようで確かに違うと、思えて。

「何時か必ず、お連れしましょう」
「約束よ」
「ーーはい」

何時かなんてそんな日は、恐らく来ないだろう。それでも。



あんたに夢を見るなど、赦されないことだ。それはとても愚かなことだ。

だが、今だけはいいだろう。
あんたが夢に飽きて、この櫓を降りるまで。



白く霞む空の果て、黄金色に染まる世界の中心に佇む彼女の姿を俺は密やかに心に描いた。










『GOLD』2. dialog and reminiscences
只ひたすらに、明日を思え。














互いの認識のズレを修正出来ないまま、終わる。
変わったことといえば、雷獣が(悪ノリ以外で)姫に触れることを怖がらなくなった……位。
でも姫に誘われると挙動不審に。退化?
まあ延々と片想いやってて、たった一晩で変わる訳がない。
てか、雷獣のATフィールド半端ないんだよ……フィールド全開なのを姫が弐号機のナイフで正面から切り裂くんだけど、何とも。

何故弐号機か。
キャラ的には被らないんですが、原作初見時、阿波でクムジが獣のようなと評した姫を見て思わず「アスカ……!」と呟いてしまったからであります。
視覚的なものだけなんですけどね。


とりあえず全然オチてないですし、また気合い入ったら続き書きます。


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テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

困った。

今年度、業務量が増えまして。まあ私からすれば「余計な仕事」な訳ですが。
こなせれば評価はされる。評価されれば更に仕事がキツくなる。何なのこの悪循環。
外回りは楽しいのです。
問題は帰社後でして。ほんと面倒な雑務ばっかり。こんなん真面目にやってたら顧客対応おろそかになんだろが!
仕事のモチベーションだだ下がりで、何か最近は仕事中妄想して現実逃避してます。
めっちゃ適当に仕事して、下期は元のポジションに戻してもらお……

そういやついった。アレほんと中毒性ありますね。どっぷり嵌ったら戻ってこれなさそうなので踏み止まってますけど。
そして元々放置気味だったリアル垢が更に酷い状態に(笑)


アニメの話。
14〜15awは、数年振りにアニメ何本か観てました。レコGとガンプラバトルと寄生獣とジョジョ。凄いな私にしては。てかその割にヨナアニメ観てないし!
そして15ssですが、ジョジョしか観てない。アルスラーン出遅れたしな……子供の頃原作小説読んだんだけどな。内容忘れた。
何でガンプラの後に銀魂?とか思ったけど、あれ日昇枠だったのですね。銀魂って高松氏でしたっけ。ガンダムXのひと。
銀魂観るかな〜銀魂元ジャンルだったし。


雷獣がどんどん原作と掛け離れていくので、一旦妄想を修正したい。多分出来ないけど。
何かこう、まったりほのぼのした話書きたいです。
ハクヨナだけじゃなく、ジェハクとか。
ジュドヨナはどうか。ジュドヨナほのぼのって何だ。ダブルスコアですよねジュドヨナ……親子?

てか私、年の差スキーなんです実は(*´ω`*)

テーマ : 今日のつぶやき
ジャンル : 日記

御礼と御連絡。

こんにちは、月桜キキです。

この度は、拙ブログにお越しくださいまして有難うございます。また、パスワードをご請求くださった方々、ほんとうに有難うございました。お手数お掛けいたしました事を心よりお詫び申し上げます。

精力的に活動する訳でもなく、辺境ブログで引きこもりながら気儘に書き散らしていたにも拘らず、私が思っていたよりも多くの方々がブログにお越しくださっていたことを初めて知り非常に驚きましたと共に、とても嬉しく思っております。

改めて、ハクヨナって凄いですね……!

予想より沢山の方々にブログに来訪頂けていたということ、ssをお読み頂けていたこと、9割9分姫と雷獣という素敵なキャラクターのおかげであることは重々承知の上ですが、それでも私の文章に何かを感じてくださる方がいらっしゃること、ご丁寧なメールをお送りくださったり、私と繋がってくださる方がいらっしゃること、涙が出るくらい嬉しいです。

ほんとうに、ほんとうに有難うございます……!

個別に頂戴しましたメールには、追って後日お返事させて頂きたく存じます。


ご請求頂きましたパスワードですが、現時点でのご請求分まで返信させて頂きました。
もしこちらからのメールが届いていないようでしたら、お手数ですが再度お知らせくださいますようお願い申し上げます。


最後に、ご連絡となります。
5月19日13時32分にご請求くださった方、メール送信不能となっておりますので申し訳ありませんが別メールアドレス記載の上再度ご連絡くださいませ。


それでは、今後とも宜しくお付き合い頂けましたら幸いです。
ほんとうに、ほんとうに有難うございました。




月桜キキ 拝

テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

ハクヨナss 『GOLD』1+α. calling(or unnecessary addition)

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近況。

連休明けは毎年忙しいのです。
通常業務に加え、連休中も容赦なく積み上げられる雑務に追われます。

そんな中、異例の暑さで体調崩しまして。倒れそうになりながらも何とか乗り切りましたですよ……!頭痛と喉痛と発熱の中、何度「何で私仕事してんだろ……」と自問自答した事か。

そういえば。
昨日仕事で、資産家の初老の男性とお話したのですが、その方は息子さんの妻を娘と呼ぶんですね。特に養子縁組はしてないとの事でしたが。
大体の方は、資産家であろうとなかろうと息子の妻を「嫁」と呼びます。それが普通。別に悪意があっての事ではありません。
だからこそ余計「娘」呼びに心が暖まりました。いいなあ、仲良しだなあ。実際仲良しみたいでした。
来週は娘さんにもお会いします。楽しみです(*´ω`*)


最近ヨナメインでついった始めたのですが、やっぱ楽しいんですよね。
入り浸るとハマりそうなんで、ちょいちょい程度にはしてますが。
元々隅っこでまったりしてるのが好きなので、こんなもんでいいかな。


先日、友人とのメールの中で昔の少女漫画の話が出まして。そのうちの一つが天河でした。
天河好きだったな〜(*´ω`*)
主人公の立身出世モノとしても楽しめましたが、とにかく脇キャラが良かった。特に女性キャラ。
最後はまるっとナキア様にもってかれたなあ……

私は女子すきーなので、ヨナにも女性キャラが増えてくれないかなーと願っております。
風牙にいたポニテの女の子とか、ジェハに惹かれてたっぽい娼館の綺麗なお姉さんとか、めっちゃ再登場して欲しい。

そうそう、ポニテ。あの子最初はセフレか何かかと思ったんですね、ハクの。
女の子たちにきゃいきゃい言われてたハクに抱き寄せられてもしれっとしてたし。
でも姫と同い年ってんで却下された。ハクと同い年か年上だったら良かったのに……って私の希望じゃなくて。ハクは例えセフレだろうが、姫に繋がるスペックの子は選ばない気がします。だって姫のこと連想して萎えそうじゃんよ……
そもそもハクは三年間不在だったっつーし。
大体さ、ポニテ視点で考えて、自分のセフレが大事そうに抱えてきた綺麗な女の子に対して、自分に比べて色気がねえだの何のからかってんの見たらああコイツその子のこと好きなんだって思うし自分をダシにした事めっちゃ腹立つと思いますよ。
でもそれもまるっと無視だし。何でしょうねこの子と思ってたら、風の部族の戦士の紹介的に彼女が登場してた。て事はあれか、ハクの妹弟子か!
そんな推測してたら余計に再登場して欲しくなりました。

そういや、ハクは時折「風牙にはイイ女がいっぱい」とか言ってますが、あれ何なんですか。揶揄だとか気を引こうと姫に対して言ってる訳でもなし、世間話?
あれですかね、お国自慢。秋田県には美人がいっぱい的な。

ところで、ハクは彼女ナシと公言されてるとどっかで読んだのですが……そうなのか。そうか。初めて知った。
彼女ナシで片思い歴約十年で、作中で描写されてるのは娼館通いの事ばっか。
里にも帰れずだし、流石に王城の女官に手出しはしなさそうだし(姫いるし後が面倒そうだし)
そう考えると、何か本格的に哀れですね。将軍なのに……

ですがホントのところ、ハクよりもスウォンの女性関係の方が気になりますよ。
一巻で姫が言ってたように、しれっと屋敷に愛人何人も侍らせてたり?
ってか高華国って一夫一妻制なんすかね……



あああ全然近況じゃねえ!

テーマ : 今日のつぶやき。
ジャンル : 日記

サプライズプレゼント!

憧れの絵師様でいらっしゃいます、もめ雄さん(@mm0gkw)が描いてくださいました!
こちらの、溜息が洩れる美麗なハクの全身像、恐れ多くもブログ内のss『路傍の花』のハクをイメージしてお描きくださったとの事。

……どうしよう、何度拝見しても胸が一杯になってしまい言葉に詰まります。
もうね、私が何を喚くよりもこの芸術品をご覧頂ければお分かりになるかと。





もめ雄さん作 雷獣





お贈り頂いた時はもう、とんだ醜態を晒してしまい、もめ雄さんにはドン引きされた事請け合い。
お恥ずかしい限りです。
今だって、落ち着いた振りしてますが油断するととんだ不審者に。

これは姫だって落ちちゃうよね、っていうトップモデルの如き彼のルックスだとか。
私の想像以上の華やかさを表現してくださった衣装とか。
こんなにも素晴らしい画を描いてくださったもめ雄さんへの熱い想いとか!

本当は際限なく書き綴りたいところなのですが、それやっちゃうとキモくてウザいので。
憧れのもめ雄さんが描いてくださったのよ!と声高に自慢するにとどめます。



もめ雄さん、本当にありがとうございます!
宝物として永久保存致します……!

テーマ : 挿絵・イラスト
ジャンル : 小説・文学

ハクヨナss『GOLD』.1 ハク→←ヨナがハクヨナになる感じの。前に捏造した港町をまるっと流用(酷。

黄昏に滲む西の空が、黄金色に染まる。







ゆったりと不規則に並び立つ無数の樹々の、空に向かい歪な波紋を描く枝の先端を彩る翠緑が幾重にも影を落とす。
時折視界に弾ける木洩れ陽に目を細めながら草木の生い茂る細く長い坂道を登り、やがて辿り着いた先は見晴らしの良い高台だった。
吹き抜けるやわらかな風の行先を追い振り返ると、眼下に拡がる煉瓦造りの街並の至る場所に宝玉の欠片を撒き散らしたような、とりどりの極彩色が飛び込んで来た。そして、鮮やかな色彩の街の更に向こうに見えるのは、陽射しを受けて眩しく煌めく海の姿。
水平線は遥か遠く、青白く霞む空に溶けるよう。

私の護衛として登城する以前、ハクが部族長の後継として行政に携わっていたという風の部族領最南端近くの港町は、彼の気質を現すかのように色鮮やかだけれども雑然としていて、私の心を騒がせる。

「姫さん、どうかしましたか?」

息を呑み眼前に拡がる光景を見詰めていた私を訝しんだのか、ハクが背後から声を掛けてきた。けれど私はそれに振り向くことはなく、ぽつりと言葉を洩らす。

「ーーとっても、綺麗。この景色をお前はずっと見てきたのね」
「まあ、そーっすね。登城してからも偶の休暇には足を運んでましたし」
「そう……知らなかったわ」
「……土産とか、渡してたでしょうが」
「それが此処の物だなんて分からないもの」

私の知らないハクを知っている街ーーそんなことを思いながら返した言葉は何だか拗ねたような響きになってしまう。しまったと焦る私の心など知る筈もないハクは、全く気にする様子もなく私の隣に立ち海に浮かぶ一艘の大型船を指差した。

「交易船ですよ。姫さんに渡した土産物は大体あの船が運んできたもんです」

ハクの声音は何だか楽しそうで、私はそれを嬉しく思うけれども、彼からその楽しみを奪ったのは誰かとか、私には代わりの楽しみを与えることは出来ないのかなんて考えも同時に浮かんできて思わず唇を咬んだ。
弾み掛けた心が重く沈むのを感じ、私はそれを悟られまいと努めて明るく笑う。

「ハクのお土産って大体果物とかお菓子だったわよね」
「そりゃあ土産物ですから消え物が一番でしょ。まあ、あんたに似合いそうな舶来の装飾品とかもありましたけどね……装飾品なんてあんた山程持ってたでしょう。かといって異国の書物を読むとも思えなかったし」
「煩いわね!……確かに、読まなかったかも知れないけど……」

ハクの言葉に宿る揶揄する響きに私は咄嗟に言い返すけれど、今となってはハクのお土産が食べ物で良かったのだと思う。もしも、装飾品だとか書物だとか形として残る物を貰っていたら……緋龍城に還りたい理由が、増えてしまう。
私の思いを知ってか知らずか、隣に佇むハクは小さく笑い私を促した。

「夕方には、もっと格別なモノをご覧に入れて差し上げますよ」

だから早く行きましょうと手を引かれ、私は素直にハクに従った。
こんな風に腕を引かれ生きることを望んだ訳じゃない。だけど、今こうして彼の掌を握り歩くことが堪らなく嬉しいと思う自分がいる。ああ何て自分勝手なのだろうかと自己嫌悪で泣きたくなった。歩かなきゃと思うのに、何故だか上手く進めない。

「姫さん?」

私の様子を察したのか、ハクは足を止め此方へと向き直り少し困ったように笑う。

「お疲れですか?荷物あるんで背負うのは無理ですけど……抱えて歩きましょうか」
「ううん、大丈夫。ありがとう」

何とも良く気が利く、優秀な護衛に笑顔を返し私は再び歩き出した。意識して真っ直ぐに。なるべく迷いのないように。

もしかしたら私、そろそろ限界なのかも知れないわ。そんなことを思いながら、八つ当たりしたくなる位青く澄み渡った空を見上げた。



✴︎



先程の高台を横切る形で鬱蒼とした森林に入ると間もなく、真新しい建造物が姿を現した。二階建ての、民家と呼ぶには豪勢に過ぎるそれは、けれど屋敷と呼ぶにはいささか小規模なものだった。

「うわ、何ココ……場所的に宿、じゃないよね。貴族のーー別荘かな?」
「ハク、もしやそなたの知り合いの邸宅か?」
「だが大丈夫かい?君の知人を疑う訳じゃないけれど……迷惑は掛からないのか?君は巷では既に死んだことになっているだろう」

建造物の玄関へと真っ直ぐに進むハクに、周囲から口々に慎重を促す意見が飛び出た。だがそれらを丸々無視して、彼は玄関の前に立つと片手で以って易々と複雑そうな鍵を開けた。

「え?雷獣鍵開けちゃったよ!知らないよどうなっても!」
「そなた何時の間にそのような特技を!」
「ハク?大丈夫なの?勝手に開けて……」

流石に少し不安になりハクの背中に問い掛けると、彼は身体ごと振り返り説明するのも面倒といった表情で軽く肩を竦めてみせた。

「勝手も何も……俺ん家なんすけど、ココ。つっても俺が王城に住んでた頃にジジィが建てたんですがね」

さらりと返され、私は思わず目を瞠りハクの姿をまじまじと見詰めてしまった。お前の家なんてーーそんなもの、知らなかった。

でも何故ムンドクが……と、訊きたかったけれども言葉に詰まる。何となく、だけれど聴きたくない答えが返ってきそうな予感がする。聴きたくない返答って何なのと自問しても具体的には思い付かないのだけど。

「まだ片手で数える位しか使ってませんけどーーまさかこのことでジジィに感謝するとは思ってもみなかった」

苦笑交じりのハクの言葉に、私は喉に閊えた問いをそのまま呑み込んだ。ハクの言う通り私はムンドクに感謝しなければならない。この地を去るまで邸宅を使えるということは非常に有難い。

「へえ、孫への贈与ね。全く……これだから金持ちは」
「そなたは良い祖父殿を持っているのだな。大事にするのだぞ、ハク」
「兄ちゃんは愛されてるなー」

それぞれの反応が本当に彼等らしくて、知らず笑ってしまう。そして、彼等の反応をどうでも良さそうに受け流すハクもまたハクらしい。皆の遣り取りを見ているだけで重苦しい気分が少しばかり軽くなるのが分かる。
ほっと息を洩らし皆の姿を眺めていると、背後から何とも浮かれたような、嬉しそうな声で名を呼ばれた。声の主へと振り向けば、ジェハが瞳を輝かせてーーハクを見ていた。

「いやあ凄いねぇヨナちゃん!流石元将軍、他にも沢山不動産持ってそうだよね彼。僕は知っての通りの自由人だけど、この旅が終わったらハクの愛人になって左団扇もイイかなって思うんだけど、どう?」
「……どう、って、何で私に訊くの?それに愛人って男の人でもなれるものなのかしら」
「そりゃあ愛さえあれば性別なんて!だけどやっぱりハクは君のものだから、一応許可を……」
「おい変態タレ目野郎、此処んとこ真っ当に闘ってねーんで苛々してんだよ。斬らせろ」
「ハク、恐いよ。というか寧ろ君の方が変態みたいだよそれじゃあ」

わざとなのかどうなのか、ジェハは何時も痛いところを突いてくる。どうしよう困ったなと思ったらハクが助けてくれたーー本人にそのつもりはないのだろうけど。

「姫さん、中に入ってください。それと変態の戯言に耳を貸さないように」

それが出来たらどんなに楽だろうか。私は曖昧に笑いながら邸宅の中へと歩を進めた。石造りの広い玄関の先は一段高い木の床だ。偶にしか使わなかったという割に埃も見当たらない。多分ムンドクの指示で誰かが手入れしているのだろう。

「……お邪魔します」

ぽつりと呟きながら靴を脱ぎ邸宅に上がる。その先は吹き抜けの広間になっていて、奥には幾つかの扉と、二階への階段が見えた。

「あっちの扉は個室になってんからそれぞれ適当に使え。寝具も揃ってる筈だ。反対側は台所と風呂な。ユン君頼むわ」
「うん、分かった任せて」
「姫さんは二階、どうぞ」

言われるままにハクに連れられ階段を昇ると、吹き抜けに沿うように細い回廊が続き、一階の個室の丁度上の辺りに、扉が二つ見える。

「手前は俺が使ってるんで、姫さんは奥を使ってください。この家で一番良い部屋ですから」

その言葉に違和感を覚え、私は首を傾げ眉を寄せた。一番良い部屋……って、だって。

「どうして、一番良い部屋をハクが使わないの?お前の家なのに」
「ーーさあ、どうしてですかね」

至極当然な私の疑問に、ハクは困ったように笑いながら言葉を濁す。訊いてはいけなかったのだろうか。
これ以上問いただすことの出来ないまま、私はありがとうと一言添えて奥の扉へと手を掛けた。

「ーーえ」

視界に飛び込んできた薄暗い部屋の様子はとても広く、設置された調度類は決して華美ではないが重厚感のある上質なものだと分かる。天蓋こそないものの、充分過ぎる大きさの寝台には肌触りの良さそうな寝具が敷き詰められていてーー部屋の形も内装も似ている訳ではないけれど、不思議と緋龍城の私の部屋を思い出す。

「結構広いでしょう?それにーーちょっと失礼しますよ」

奇妙な既視感に囚われてその場に立ち尽くした私の横を通り過ぎ、ハクは部屋の奥へと進むと、壁一面の障子戸とその奥側の木造りの雨戸を開け放った。
僅かに色付いた、夕暮れ前の陽射しが部屋中を照らす。明るくなった室内は思った通り立派なものだったけれど、それよりも部屋からの景色に私は釘付けになった。

「綺麗……」

それはまるで一枚の壁画のようだった。さっき眺めた高台からの景色よりも更に高い位置から見る色鮮やかな街並と淡い金色に光る海。空と海の境界線は微かに翳り、夜の到来を予感させる。海面の金色もやがて黄昏色に塗り替えられるのだろう。

「お気に召しましたか?絶景でしょう。ちょっと待っててくださいね、反対側の窓も開けてきますから」

そう言うなり部屋を後にしたハクの背中を追うことはせず、私は街の先に横たわる海の煌めきと、海面を割ってゆるりと進む交易船の黒い影を眺め遣った。

あの船に乗れば、遠い異国まで行けるのだろうか。何かを、見付けることが出来るだろうか。
私を、連れて行ってくれるだろうか。何処かーー最果ての街まで。

暫く外の景色を眺めていると、用が済んだのかハクは何も言わないまま私の隣に立ち同じように此処からの景色に視線を向けた。私はちらりと彼の姿を伺うと、海に浮かぶ貿易船を再び見詰めながら尋ねる。

「此処には、どの位滞在出来るかしら」
「……まあ、目立つことでもしなけりゃ何年でもーー只、あんたも俺も珍獣共も、存在するだけで目立ちますがね」
「酷い話ね。悪いことなんて何もしてないのに」
「……そうですね」

ぽつりと洩れたハクの声音は、静かだけれど少し硬い。ああ、また余計なことを考えさせてしまったのだ。
酷い話だなんて今更なのに。大体、私の我儘に付き合わされているお前の方が余程酷い目に遭っているというのに。

「でもね、だからって息を潜めて生きるなんて真似はもう、したくない」
「ーーはい」

努めてはっきりと言ってはみたけれど、ハクの返答は変わらず静かで、痛い位硬かった。

きっとハクもこうして旅を続けることに限界を感じている。
最初は只生き延びるため国中を廻って、どうしようもない現実を知って、それでも何かをと、せめて目に見える範囲だけでもと私なりにやってきた。それが先王の娘である私の務めだとも思っていた。
けれどやはり私達は目立つのだ。私の髪も、ハクの剣技も、四龍の力も、旅先での行動も、皆。

スウォンは、私達が静かに生きているだけならば多分今後も見逃すつもりだろう。そもそも私達は既に生きてはいないということになっているという話だ。
けれど、旅の中でこれだけ人前に姿を晒し派手に立ち回って人の噂にならない筈がない。

「何時かまた、スウォンの追手が襲ってくるのかしら」
「ーーどうですかね。それよりも俺は、緋龍王だ何だとの民衆の声やそれに乗じてあんたを担ぎ出そうとする勢力が現れる可能性の方が厄介だと思いますがね」
「そうね……そうなったらもう、見逃しては貰えないわね。下手をすれば追手どころか戦になってしまう」

ゆっくりと揺蕩うように沖へ進む交易船を目で追いながら、私は大きく息を吸い込むとハクに向き直った。
ああ、そうね……お前が私をこの街に連れて来た理由が理解出来たような気がする。
きっとお前は、私に今後を選択させたいのね。

「此処でなら、私はお前と……ずっと暮らして行けるのね?目立たないように息を潜めていれば」
「ーーはい」
「お前は、それを望むの?」
「……あんたが生きていけるなら、俺は何だって構いません」

淡々としたハクの声音を聴き、私は小さな苦笑を洩らした。あくまでも優秀な護衛で在ろうとする、お前の本音はやはり見えない。

「ですが、あんたは大人しくしてんのは嫌だと仰る。かといってこのままだと何れ面倒なことになるでしょう。どうしますか?いっそのこと天下でも獲りに行きますか?」

平坦だったハクの言葉に揶揄の色が交じる。けれどもその瞳は変わらず静寂を湛えていて、とてもちぐはぐに思えた。何だろう、何かをはぐらかしているのだろうか。それとも、私を危険に向かわせまいと敢えてわざと言っているのか。

「私はスウォンを赦した訳じゃない。だけど国が良い方向に向かっている今、彼と事を構えるのは国のためにならないわ。それに、国王と闘ってハクや皆が無事で済むとも思えない。私怨のために皆を犠牲にすることは出来ない」

この言葉がハクの望む答えなのかどうかは分からない。ハクもまた、スウォンを赦せないと強く思っているのだから。
けれどもこれは私の本音だ。私には、父上を殺され酷い目に遭わされたことへの怨みよりも優先すべきことがある。父の仇討よりもこの国の未来よりも、お前の命を守りたくて私は此処まで来た。

私はハクの返答を待たず、先程から考えていたことを口に出した。

「ハク、私は一旦この国を出ようと思うの。隣国ではなくて、海を越えた何処かへーーイザの実のように、民のためになるような何かを捜しに行きたい」

真っ直ぐにハクを見詰め言葉を紡げば、私を見詰め返す凪いだ紺青の瞳が微かに和らいだような気がする。ほんの少しだけ口元に笑みを刷き、彼は再び外へと視線を移すと何時もの調子で戯けてみせた。

「ホント人使いの荒いお姫様だ。ま、いいでしょう、何とか出港の手配はしてみせますよ。正規の手続きは踏めませんが文句言わねーでくださいよ」
「ハク、待って」

私の主張が予想通りだったのか、それともこれこそが望む言葉だったのか、全く意見せず是と答えたハクを制し言葉を重ねた。

「四龍は連れて行けないわ。彼等はこの国でしか生きられない。ユンはどうするのか分からないけれどーー私と一緒に行けば、またお前に負担が掛かる」
「今更何言ってんすか、何処にだって俺は付き従いますよ……専属護衛ですから」
「長旅になるかも知れないのよ」
「この地に何年も隠れ住むより余程有意義かと思いますが」

さらりと繰り出される応酬は予定調和の体を成して私の耳に心地良く響く。ああ、何て酷い。
お前の命を守りたくて皆の力を借りたのに、私はその力を借りれない場所に行こうとしている。そしてそれでもお前は私と一緒に来てくれると言う。そう言ってくれることを本当は分かっているのだ。お前に負担を掛けたくないと思いながらも、傍にいてくれることが嬉しくて堪らないーー何て浅ましく、情けないのだろう。お前の命が奪われることが怖くて仕方ないのに、それ以上にお前が私から離れてしまうことに恐怖している。

自分の弱さや狡さに嫌気が差して、けれどもその原因となる感情を否定することだけは出来ずこれ以上何も言えなくなってしまった私に、俺の勝ちでいいっすかー?なんて底意地の悪い笑顔で。ああもうムカつく人の気も知らないで!

「何やら色々とお悩みのご様子ですがーーちょっとこっち、見ててください」

ポンと頭に手を置かれーーまた子供扱い!信じられないわ、もうーーハクは部屋の扉の前まで移動するとそのまま扉を開け放つ。

刹那、眩しい光が辺りを包み込み、私は思わず目を細め声を上げた。

「ーーわぁ……!」


世界が、黄金色に染まる。


回廊側の大窓から射し込む斜陽が邸内を覆い尽くし、水に溶けた鬱金の染料のように壁も床も置かれた小物類に至るまで、此処に存在する全てを潤ませ只一色に染め上げていた。
それはとても懐かしいような、切ないようなーー何故だか胸が締め付けられる光景で。

「綺麗でしょう?これが見たくて、偶の休暇の度に来てたんです。此処に立つと、持て余した面倒な感情が浄化される」

ハクは私が感じた一抹の寂しさだとか切なさ、郷愁の念といったものは感じていないらしい。清々しさを感じさせる真っ直ぐな視線を黄金色に滲む回廊へと向けた彼は、満足気な笑みを浮かべた。

「ま、細かいことは気にしないのが一番っすよ」
「……うん」

難しいことを言うものだと思いながら小さく頷けば、ハクはもう一度私の頭にポンと掌を乗せた。また?
物凄く複雑な気持ちになるから出来ればこの触れ方はやめて欲しい。嬉しいけれど、哀しくなる。
だからといってそれを言い出せる筈もなく、私は自分の感情を誤魔化しながらハクに尋ねた。

「あの頃のお前に悩みがあったなんて知らなかったわ。なあに、ジュドにでも苛められたの?」
「……まさか。まあ概ね姫さんの我儘や理不尽な仕打ちに耐えかねてですね」
「ちょっと!何よそれ!何時私がお前をーー」

ハクが答えをはぐらかしていることは分かった。分かったけれど、黄金色に滲む彼の姿が何故だかとても寂し気で、だけど見惚れる程綺麗でーー何も、言えない。

本当に、限界かも知れない。
得も言われぬ焦燥感が心を支配する。けれど私はそれを笑顔で抑え付けながら無理矢理言を紡いだ。

「私が我儘だなんて、そんなの昔から知ってたでしょう?幼馴染なんだから」

戯けて告げた私の言葉に、ええそりゃ勿論存じ上げてますよとハクもまた戯けたように笑った。



✴︎



ユンが腕を振るってくれた夕飯を済ませ、皆と他愛ない話題で盛り上がって、それから湯浴みをして部屋に戻った。

ジェハは夜の街を散策すると言って早々に出て行ってしまった。ゼノに皆で星見をと誘われたけれどとてもそんな気分にはなれず、でも私を一人残し皆が出掛けることはしないと分かっていたから断りを躊躇していたら、ハクが武器の手入れをするから残ると言う。
疲れちゃったから遠慮するわと、彼の言葉に乗じて私も残り、早々に湯に浸かって此処にいる。

燭台の灯火に照らされた部屋の中、寝台に腰掛けて濡れた髪をやわらかな布で拭う。普段泊まる宿の寝具とは違い滑らかな肌触りの寝具が設置された贅沢な寝台は、やはり王城のものに似ていた。
別荘なのに、風牙のお屋敷よりも贅沢だなんて変なのと首を傾げながら、部屋の半ば程の位置の壁際に置かれた小さな箪笥の横にある大人一人が通れる程度の扉に視線を向けた。収納なのかと思っていたら、隣の部屋に直接繋がる扉だと言われた。
緊急時には此処から行きますんで、姫さんも何かあれば遠慮なく開けてくださいと念を押されたことを思い返す。
不思議な造りだと思う。一つの部屋を仕切った訳でもないのに、対になっているみたいな……
ハクの部屋も同じ形なのかしらと、ちょっとした疑問が生まれた私は改めて部屋中を見回した。
飾り気のない黒檀の調度類。異国の織物だろうか、床や棚の一部を覆う極彩色の厚手の布地。燭台の仄かな灯りを反射して鏡台が存在を主張している。

ーー鏡台?

自分の鼓動が、静寂の中で大きく響いた気がした。恐る恐る寝台を離れ鏡の前に立つ。
間近で見るそれはやはり鏡台だった。他の調度類と同じく黒檀の、とても立派な鏡台そのものに使用された形跡はなかったけれど。

「ーーこの、部屋……」

口元を両手で覆い、私はその場から数歩後ずさった。否応なく収集されたハクからの情報が、綺麗に繋ぎ合わされる。
ムンドクが建てたハクの別荘。ハクの部屋に内側で繋がる、この家で一番眺めの良い部屋。何故この部屋を自分で使わないのかと訊いたら言葉を濁したハク。

この部屋は女性のための部屋だ。誰のかなんて知らない。決まった人のものなのかそうではないのかも分からない。だけど、此処は私以外の誰かの部屋だ。この家のーー女主人の部屋なのだ。
ジェハが昼間言っていた。ハクの愛人になって左団扇だなんてことを。勿論それは私をからかうための冗談だろうけど……実際ハクは部族長であり将軍だったのだ。彼が望みさえすれば何人もの女の人を侍らせることも可能な地位に彼は就いていた。
愛人だのはともかくとして、婚約者やそれに準じたような女性がいたとしてもおかしくない、後継を求められる立場にいた筈だ。

気付いてしまったら居た堪れなくなって、私は床に座り込んだ。寝台も椅子も、部屋に置かれた全ての調度類に触れたくない、触れてはならない気がする。私には此処を使う資格はない。存在するのかどうかも分からない知らない女の人よりも、ムンドクに申し訳ないようなーー

いいえ違う。この私が嫌なのだ。こんな場所にいたら気が狂う。

けれど勝手に逃げ出すことも出来ず、私は床に蹲り膝を抱え込んだ。心が握り潰されたみたいに痛む。どうしようもなく溢れ出した涙を抑えようと奥歯を食い縛りきつく瞼を閉じた。
嗚咽を洩らしては駄目。ハクに気付かれたくない。困らせてしまうだけだ。

「ーーあの時、お前が欲しいなんて……言うんじゃなかったわ……」

ぽつりと呟き、涙を止めることも出来ないまま私は風牙の都を出た時のことを思い出していた。優しい風の部族の皆を巻き込みたくなくて、私はハクに自分を連れて行くよう強請った。それが当然だと思っていた。私は真実を知る者として、ハクは国王暗殺の濡れ衣を着せられてーー追われているのは同じなのだ。だから一緒に来て欲しいと。
金だの何だのと言いながらも結局ハクは私の要求を呑んでくれて、冗談ではなく本当に、ハクは私にハクをくれた。城を追われ何者でもなくなった私に、彼は自分の命をくれたのだ。
感謝しているのだ、とても。どう報いたら良いのか分からない程に。
けれど私は彼の命を彼に返したいと願った。ハクの命を盾にして私だけ生き延びることなど出来ない。ハクに死んで欲しくない一心で私は四龍の力を乞い、弓を引き剣を振るった。

身一つの人間が差し出すもので己の命以上のものなんて有りはしない。だから私は彼にこれ以上は望めない。要求などしてはいけない。
お前の命だけでは足りない、もっと寄越せなどとーー傲慢にも程がある。

これは罰なのだろうか。ハクは私に自分を道具と思えと言った。勿論そんなことを思っていた訳じゃない。けれど結局私は、ハクを自分が生きるための道具にしてはいなかったか?
姫だから?父上の娘だから?そんな理由を言い訳にハクの好意に甘え何の見返りも与えずに。

我儘で理不尽ーーその通りだわ、ハク。だから私は今神様に罰を受けているのよ。

逡巡を重ねてもどうにもならない想いを抱え込むのは辛く苦しい。そんなことは分かっている筈なのに、それでも捨てられない。

ーーどうしよう。本当にもう、限界だ。

膝を抱え込んだまま小さく蹲っていると、やがて階下から幾つもの物音が聴こえた。きっと皆が帰って来たのだ。一瞬、この暗く澱んだ気持ちを振り切るため皆のところに行こうかと顔を上げたけれど、こんな泣き顏とてもじゃないけど晒せないわと思い直した。
そうだ、それよりも皆がこの部屋を訪ねてきたらどうしよう。門前払いなんて出来ないし、だからって扉を開けたらこの酷い有様を見られてしまう。

水差しの飲み水を使って顏を拭おうと私はふらりと立ち上がった。ちらりと鏡台を覗けば酷い泣き顔が映る。不快感にいっそ鏡を叩き割りたい衝動に駆られるがそんなこと出来る訳がない。

とにかく自分のこんな酷い姿なんて見せたくない。ああそうだ、灯を消してしまおう。真っ暗にして寝てしまえばいいのよ。
私は結局水で濡らした布で顏を拭いながら燭台の灯を吹き消した。



✴︎



皆が寝静まるのを見計らい、壁に凭れて座っていた私はゆっくりと立ち上がった。耳を澄ましても生活音どころか何の物音も聴こえて来ない。
一体今は何時なのだろうか。随分長いことこうしていたような気がするけれど。

ーーハクは、まだ起きているだろうか。

ぼんやりとハクの部屋に繋がる扉を眺め、私は一歩足を踏み出した。ゆっくりと扉に向かい進みながら明日のことを考える。
明日はどうしているのだろうか。私は明日も此処で夜を明かすのだろうか。暗くどろりとした気持ちを抱えながらーー?

そっと扉に手を掛けてみた。でもそこから先には進めない。この扉を開けてしまえば、きっと何かが変わってしまう。
ハクのところへ行って何を言うつもりか。助けてくれと縋るつもりか、お前の所為だと当たり散らすつもりかーー私の想いを叩き壊せと命じるつもりか。

そこまで思いを巡らせて、ふと自嘲の笑みが零れた。そんなことどうでもいいじゃない。何でも構わないわ、どうせもう限界なのだ。この旅も、私の感情も。
混沌とした思考の中でたった一つだけ明確なことがある。ハク、私は今お前に会いたい。お前の顔が見たい。お前に、触れたい。

一旦瞑目し、深呼吸すると私は隣の部屋に繋がる扉をゆっくりと開けた。
極力静かにと注意を払ったつもりだったけれど、真夜中の静寂に包まれているからか扉は乾いた音を立てて二つの空間を一つに繋いだ。
意を決して扉を潜ると、隣と同じような広さの空間が視界に飛び込んで来た。燭台の灯を幾つか燈しているのだろう、それなりに明るく瞳に映る部屋の奥で、寝台に半身を横たえて書物に目を通すハクの姿があった。

「どうしました、何かありましたか?」

書物から視線を外し寝台の上で起き上がると、ハクは意外そうな顔で私を見遣りながら訊いてきた。それには答えず、真っ直ぐにハクの傍近くへと歩み寄る。

「眠れない?それとも怖い夢でも見ましたか」
「……うん、眠れない」

ぽつりとそれだけ答えると、反応を待たずに寝台へと乗り上げハクに向かい合うように腰を下ろした。隣と同様上質な寝台は軋む音を立てることもない。

「……何すか、それで俺を追い出そうってか」
「違うわよ」
「では子守唄でもご所望で?夜伽噺の方がいいですかね」
「……子供扱い、しないで」

不貞腐れた響きを言葉に込めてぼそりと呟くと、ハクは少し困ったような、それから多分に面倒そうな溜息をついた。面倒……そうね、分かっているわよそんなことは。

「はあ…すいませんねえ。じゃあ何ですか、夜這いにでも来ましたか」
「ーーそう、ね、そうかも……知れないわ」
「は?何言ってんの突っ込めよソコ」

こうして夜中に忍んで来たというのに、言葉遊びに付き合ってやるとでも言わんばかりのハクの態度は普段と全く変わらぬもので、私は胸の軋みを覚え眉を顰めた。分かってはいたけれど、この人の心には我儘で幼いままの『姫』ではない私など存在しないのだと改めて思い知らされる。

ーーだったらもういっそ私の想いを叩き壊して頂戴。

自暴自棄ともいえる願いを込めて、突っ込むところなんて何もないわよ、と返せば面倒そうだったハクの表情が苛立たし気に歪む。ち、と舌打ちする音がやけに大きく感じられた。

「……へえ、そんな不機嫌丸出しな顔して夜這い、ねえ。あんた、意味分かってて言ってんですか?」

それまでとは打って変わった、嫌味とも違う、棘を孕んだ言い方に努力して奮わせていた気持ちが萎える。何故こんなにも豹変するのか。まるで攻撃されているようだ。
きりきりと痛む心を抑えながらそれでも真っ直ぐに真意の見えない紺青の双眸を見詰めれば、苛ついたような表情でハクは此方を見詰め返して来た。

「ーー分かって、いるわ」

私は負けじと挑むようにハクを睨み付けながら自分の夜着の帯へと手を掛けた。こんな風にしか想いを伝えられない自分が情けないけれど、だって仕方ないじゃない。この人に私の想いをどう言ったって笑って躱すか子供の戯言と取るかーー私を傷付けまいと、気持ちもないくせに『姫』の我儘に付き合うか、しかないんだもの。

「ーー待て!待て待て待て!何考えてんだあんた!」
「きゃ……!」

帯を解こうとしたところで、狼狽した声音と共に手首を掴まれ止められた。そのまま引き寄せられた私は思わず小さな叫びを上げるけれども、ハクはそれに構うことなく険しくも慌てた表情で至近距離から私に視線を合わせ半ば怒鳴るように憤りと疑問を叩き付けて来る。

「何なんですか一体!姫さんあんたおかしいですよ!」
「ーー何って……」

そんなの、言葉通りじゃない。独り言みたいに呟いてハクから視線を外すと、私の手首を掴む彼の大きな手をぼんやりと眺める。
此処に存在するのは明確な事実。何時だって私を守り支え、私を導き、私に優しく触れるハクの手が今、明らかに私を拒絶していた。

ああこれが答えなのだと、私はゆっくりと瞼を閉じた。この人は私が望んでも、同じように私を望んではくれない。
どうしようか……冗談だと笑って誤魔化してしまおうか。

ーー駄目だ。私の心は既に限界だっていうのにこれ以上は耐えられる自信がない。こんなにも痛む心を抱えながら、明日からまた笑ってハクと過ごすなんて、それこそ拷問だ。

冗談だと誤魔化すことは自分の首を絞めるだけだと、私は再び瞼を上げると彼に視線を合わせた。
だからといって彼に言葉で気持ちを伝えることは出来ない。伝えることなんてなくなってしまった。

だって私は今この人に……拒絶、されたのだ。

「ーーお前には、感謝しているの。私を見捨てず此処まで付き合ってくれて……でも私はお前に、何も返せていないから……」

感謝の気持ちや申し訳なさに嘘はない。だからせめてこの人の負担にならないようにと、私は真実とは違う理由を述べた。
けれどもハクの険しい表情に変わりはなく、それどころか怪訝そうな眼差しを私へと向けてくる。

「それで褒美をくださるってんですか?ーーあんた、タレ目に何か吹き込まれましたね?だから変態の戯言に耳を貸すなと……」
「違うわ!」

思わず声を張り上げると、ハクは驚いたように目を瞠り私を凝視する。本当は曖昧な返事で濁してしまえば良かったのだけれど、どうしても出来なかった。
褒美という言い方がとても嫌だった。この人の双眸に私はそこまで傲慢に映っているのか。せめてそれだけは否定したくてハクに詰め寄り、違うと繰り返す。

「お前の命の対価が、こんなちっぽけな身体一つだなんて有り得ない。こんなことでお前が喜ぶとも、お前を繋ぎ止められるとも思ってないわ。だけどーー今の私は私しか、持ってないもの」
「ーー姫さん」

言葉にしてみて改めて思い知る、ちっぽけとしか表現出来ない自分の価値が情けなくて、泣きたくなるのを堪えながら言い募るとハクは険しい表情のまま、それでも少しは落ち着いたのだろうかーー掴んでいた手首を放しゆるりとした動作で私の髪に触れると、撫で下ろすように梳いていく。
何時もの気安い、子供に対するみたいな触れ方ではない彼の仕草に鼓動が一つ、身体の奥で響く。

「すみません……何がそんなにあんたを追い詰めちまったのかーー俺の、所為ですね」
「違う!ハクの所為なんかじゃなくて…」
「俺に悪いと、思っているんでしょう?」

すみませんと繰り返しながら、ハクは緩やかに髪を梳いていた指先で私の頬に触れた。力など全く込められていないのに、傷を負わされた時のように身体中の感覚が触れられた場所に集中する。熱い。
火傷しそうな熱から逃れたくて、けれど何故だか身動ぎすら出来ない。只茫然と紺青の双眸を見詰めていると、硬かったハクの表情がふと和らいだ。

「姫さん、俺はこれで充分なんです。こうしてあんたの傍で、あんたを守って行ければそれでいい。好きでやってることですから……あんたが気にする必要はありません」
「ーーどうして……?だって私はもう王女じゃないのよ。お前は私の望み通りに私を王女として扱ってくれるけれど……本当は、私にだって分かっているわ」
「あんたが王女であろうとなかろうと、俺にとってそんなことはどうでもいいんです」

何処か申し訳なさそうに小さく笑い、ハクは思いも寄らない言葉を紡ぐ。どうでもいい、なんてそんなこと有り得ない。お前はまたそうやって、私を傷付けまいと嘘をつくの?

「嘘よ……!ハクの嘘つき!お前は私が王女でなかったらーー父上の娘でなかったら私のことなんて見向きもしないくせに!」

堪らずにかぶりを振りながら口を突いて出た科白は子供染みている上にやたら非難めいたもので、しまったと咄嗟に両手で口を塞ごうとしたけれどそれが叶うことはなかった。
両手首を掴まれて、声を上げる間もなく背中に軽い衝撃が走る。瞬き程の僅かな時間の中で私の両腕は寝台に縫い止められ、気付けば身を屈め覆い被さるハクの体重で動きが封じられていた。
驚きに目を瞠り至近距離から私を寝台に組み敷いた男の顔を伺い見ると、彼は悲痛な光を宿す双眸と、酷く苛つき多分に棘のある、皮肉めいた表情で此方を見詰めていた。

「今夜は随分と絡んで来やがりますねェ。この俺が、褒美も対価も要らねえっつってんのにーーあんた一体何なんです」
「ハク……?」
「そんなに俺の腹ん中暴きたいんすか?第一あんた、そんなこと知ってどうなります?俺の望みを叶えてでもくれるんですか?それともーー今以上に俺を支配するおつもりで?」

畳み掛けるように浴びせられたハクの科白が、まるで鋭い獣の爪のように私の心を抉りに掛かる。そんなに私の子供染みた八つ当たりが気に入らなかったのか、言ってはいけないことを口走ってしまったのかと、私は咄嗟にハクの双眸を覗き見るけれども。

「ハク……、お前……何でそんなに、辛そうな目を、しているの……」

怒らせたのならごめんなさい、とか。
私に叶えられる望みがあるのなら何でもするわ、とか。
支配なんて、そんなこと出来る筈ないでしょう、とか。

言いたいこと言うべきことは他にもあった。けれども苛立たしさを顕にした不愉快そうな表情とは裏腹に、痛々しい光を双眸に宿していたからーー思考より先に、言葉が口を突いて出た。
ハクはそれに怒るでもなく、只少し驚いた様子で私を凝視し、それからふと苦笑を洩らす。すみません、八つ当たりですと私に謝りながら彼はやがてゆっくりと身を起こした。
八つ当たりしたのは、私の方なのに。

「そうっすね……主のご厚意を蹴ろうってんだ、そりゃあ相応の理由が必要っすね」

溜息交じりにそう言って、ハクは気怠そうな様子で寝台の上に座り込んだ。私も続けて身を起こすと彼は、出来たら不届き者の世迷言と忘れてくださいねと前置きして。

「俺はあんま物分かりのいい男じゃないんで…褒美だろうが対価だろうが、あんたを抱いちまったら多分ーーあんた、苦労しますよ」
「次はもっと別の良いものを、ってこと?でも……ごめん私、私以外に何も持っていないわ」
「……。誰もそんなこと言ってませんよ。俺が、あんたを手放せなくなるーーそれだけです」

少し言葉を選ぶような、核心に迫ることを避けるような言い方が妙に腑に落ちない。けれどそれよりもハクの言葉そのものに違和感を覚えた。

「……以前、俺は姫さんの本気の命令には逆らえないと言った。ですから今後あんたが俺を不要だとーー立ち去れと本気で命じるならばそれを受け入れる覚悟は一応、出来てるつもりです」

淡々と紡がれる言葉は何処までも従者のもので、ハクとの遣り取りの中で忘れ掛けていた胸の痛みが蘇る。私はきゅっと唇を咬み無言で次の言葉を待った。

「でも、一度でもあんたを抱いたら…そんな覚悟なんて崩れ落ちちまう。あんたが泣こうが喚こうが、例え縛り付けてでも鎖に繋いでも俺はあんたを放せない」

ーーだから、俺にそういうもんは要りません。

低くやわらかく耳朶を打つハクの言葉はとても耳触りの良いもので、何も考えず酔い痴れてしまいそうになるけれど、今の私にはどうしたって……違和感が拭えない。だって変だわ、これじゃあまるでーー

「あの……ハク、良く……分からないのだけど」
「……。これで分からない、と仰いますか」
「だって……その、男の人はそういうの……割り切れるっていうか、平気だって。誰でもいいって言ったら……あの、語弊があるかも知れないけれど」

何となく言い辛くて躊躇いがちに告げたら、苦虫を噛み潰したような物凄く嫌な顔をされた。もう十年以上付き合っているのに、この人の地雷がいまいち分からない。
もっと沢山、お前を見ていれば良かった。あの頃のお前に、もっともっと触れていれば良かった。今更どうしようもないことをふと考えていたら、大袈裟な溜息が間近から聴こえた。

「……タレ目がそう言ってましたか?」
「え?あ、うん……そう。何時だったかは忘れちゃったけど」
「姫さん、もう一度言いますよ。変態の戯言に耳を貸すんじゃありません!」

何時もの調子でびしりと言われ、咄嗟に思い切り頷いてしまう。条件反射のような自分の反応が何だか可笑しくて少しだけ笑い声が出た。するとハクも小さく笑い、それから私の思考を見透かしたかのようなことを訊いてきた。

「姫さんは、昔俺と過ごした時のことを、覚えていますか?」

もっともっとと思ったことをそのまま問われ、私は曖昧に頷いた。覚えていない訳ではないけれど、あの頃の想い出は日常に過ぎて朧気なものばかりだ。

「城を抜け出したこととか、皆で雪遊びして風邪を引いたこととか……楽しかったことはよく覚えてるけれどーーそうね、でも、何時もお前が城に来てくれることがとても楽しみだった。待ち遠しかったのよ、とっても」

私の言葉を黙って聴いていたハクは、それはどうもありがとうございますと形ばかりの礼を述べ、それから何処か遠くを眺めるような眼差しで、言った。

「俺は良く覚えていますよ。あんたが何を言いどう笑ったか……何を喜び俺にどう触れたのかーー全部、覚えてます。俺はあんたを…ずっと、見てきました」
「……ハク……」

思いも寄らない幼馴染の言葉に、茫然と名を呼んだ私へと、彼は黒曜とも見紛う紺青の双眸を向けふわりと笑う。

どくりと、鼓動が胸を打った。
締め付けられるような切なさに、泣きたくなる。
私を映し出すその眼差しは、愛しい者を見る目だとーーひとかけらの疑いもなく、じわりと心に沁みていく。

「だから姫さん、あんたが王女であるかどうかなんて、幼馴染の俺には関係ないんですよ」

どんなに望んでもどうせ手に入る筈がないのだと掴み取ろうともせずに諦め、望む気持ちすら捨て去ろうとしていたものが、本当はずっとずっと以前から腕を伸ばせば届く場所に存在していた。言葉にすれば明快な事実は、だからといってそんなに簡単に落とし込める訳じゃない。
何をどう彼に伝えればいいのか、思考が全く追い付かず縋る思いでハクを見詰めていたら、彼の大きな手が私の頭に乗せられた。ちょっと……此処で、これなの?

「はい、理解出来ましたか?出来たんならとっとと戻んなさい。ま、本当に眠れねえってんなら遊び相手にはなりますがね」
「なっ……!」

先程までの雰囲気など微塵も感じさせず私を隣の部屋へと追い遣ろうとする幼馴染に向かい、勝手に話を終わらされてなるものかと慌てて声を上げた。

「待ちなさいハク!そんなこと……信じられる訳ないじゃない!大体お前は何時も意地悪だし私を子供扱いするしっ……」
「意地悪は俺の趣味だってあんたが言ったんでしょうが。あんたを子供扱いすんのはーーその方が楽だからです」
「楽って……」
「俺の気が楽、ってことですよ。てか、そろそろ勘弁して貰えませんかね」
「駄目よ!」

いささかうんざりした様子で、ハクは寝台の隅に転がされた書物を手に取るとそのまま寝台を降りようとしていた。
今を逃したらもう二度とハクの本音に触れることは出来ない気がする。私は弾かれたように寝台横に立った彼の広い背中に縋り付いた。両腕を廻し身体を押し付けると、一瞬ハクの背中が震える。

「姫さん……あんた本当に人の話聴いてねーのな。だから俺にそういうのは不要なんですって」

呆れ返ったような声音が耳に届く。多分、不機嫌を顕にする一歩手前だ。だけど気にしてはいられないと私は懸命に自分の思いを言葉に乗せた。

「違うの!ごめんなさい、ハク。でも聴いて?確かに私はお前に何も返せないことを申し訳ないと思ってる。だけど…私が今此処に来たのは、本当は対価だとかそういうんじゃなくてーー只、お前の顔が見たかった。お前に、触れたかっただけなのよ……」
「ーー姫さん?」
「ハク、私は……」

ハクの声を遮って、けれど私は言うべき言葉を失った。どうしよう…何をどう告げればいいのか、とても迷う。だって私は想いの丈を伝えようと此処に来た訳じゃなくて。だから言葉なんて、用意していない。
私は只お前に泣き付いて、当たり散らしてーー私の想いを壊して欲しかったのだ。

けれど、この人は。
腕を伸ばせとーー望むものを、掴み取れと。

「ーー私が我儘だってこと、当然知っているわよね、幼馴染なんだから」

ハクの背中に頬を寄せて、私はゆっくりとした口調で言葉を紡ぐ。

「はい、そりゃあ勿論……幼馴染ですから」
「それでもいいと、お前は言ってくれるのね?」

私の問いに応えるように、ハクの身体に廻した手に彼の掌が重ねられた。こうやって触れられると震えが走るものなのか、今度は私の背中が小さく跳ねる。

「あんたの我儘を叶えることが、俺の役目だと思ってます」
「ーーじゃあ、叶えて……ハク」

広い背中に頬を寄せたまま、瞼を閉じて耳を澄ませた。規則正しく聴こえてくる彼の鼓動が心地良い。
廻した両手に力を込めて、私はたった一つの望みを唇に乗せる。

「私の我儘を叶えて頂戴。ハク、私は……ハクが欲しいの」
「姫さん……あんたーー」
「お願いよ、私にお前を頂戴。だって全然足りないわ。私はお前の心も躰も全部欲しいの……!」

こんなにも傲慢な我儘なんてきっと何処にもない。天下獲りに名乗りを上げる方が余程控え目なのではないか。ふと昼間のハクの言葉を思い出し苦笑が洩れた。

「ーーいいんですか?姫さん」

少し掠れた声がして、ハクの背中から顔を上げた。それが合図となったのか廻した手首を掴まれてそのままくるりと回転させられる。突然の暴挙にーーハクにしては、だけどーー驚いて声も出せないまま、次の瞬間にはハクの腕の中に閉じ込められていた。

「いいんですかって……それは私の科白だと思うわ」
「いや、そうじゃなくーー言ったでしょう。あんた、苦労しますよ?」
「しないわよ。私がお前を捨てるなんて有り得ないもの。それよりも私の我儘にお前の方が苦労するわ」

そう告げてくすくすと笑えば、ハクもまた釣られたように笑う。昼も夜も笑い合ったあの頃の懐かしい記憶が胸を掠め、切なさに瞳を閉じた。

「違いねえ。ま、精々頑張りますよ」

密やかな笑い声と共に耳元で囁くように告げられ、首筋から肩先まで何故だかぞくりとした震えが走る。馴染みの薄い感覚に戸惑いながらもハクの背中に腕を廻せば、応えるように私を抱き竦める両手に力が篭められた。

それから、私達は再びやわらかな寝台へと身を沈めた。









『GOLD』 1. subject
明日へと、無邪気に進めーー







……何も云うまい。
とりあえずまだ続きますよ。

テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

プロフィール

月桜キキ

Author:月桜キキ
月桜キキと申します。
数年振りに二次創作の世界に出戻って参りました。普段はしれっと会社員やってます。

暁のヨナ、聖闘士星矢(無印)を中心に、他ジャンルも時々。
NLBL混在しますのでご注意!

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