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ハクヨナ前提未来話 『路傍の花』.1 ヨナ、ハク、スウォン。(後半セクハラ表現有り御注意下さい)

名もなき小さな花を、只静かに抱きしめる貴女へーー



✳︎



燭台の灯りに仄かに照らされた、隅々まで磨き抜かれた石造りの回廊を渡る。
周囲に響き渡る、荘厳な鐘の音にも似た二組の靴音は、まるで何時だったかに聴いた二重奏のよう。

そういえばもう何年も楽器に触れていなかった。仮に今、琴を手渡されたとして果たして満足に爪弾くことが出来るだろうかなどと思い、知らず苦笑が洩れる。
きっともう、私が琴を掻き鳴らす日は来ない。そんな日は要らない。私ではなく他の誰かが……それを望む誰しもが楽器に触れることの出来る日なら欲しいけれど。

行く手を真っ直ぐに見据えながら、歩調を乱さず進む。謁見の間へと続く広く長い回廊は、足を踏みしめるほどに人を厳粛な気持ちにさせる。
嘗ての城主の娘でありながら、いいえ城主の娘だからこそかも知れないけれど、十六年もの年月を過ごした緋龍城の、この回廊を渡るのは初めてだ。

やがて辿り着いた先、眼前に佇むのは繊細な彫刻を施された重厚な扉。謁見の間の、玉座へと続く空間の入口。
足を止め深呼吸し、私は背後を預けた唯一人の半身とも呼ぶべき存在へと、振り返ることはせずに告げた。

「ハク、ごめんね……お前の命、私に預けて頂戴」

声は震えていなかっただろうか。掠れていなかっただろうか。零れ落ちそうになる涙を堪え私は唇を咬みしめた。
振り返ることは出来ない。振り返ってしまったら、お前の顔を見てしまったら私はきっと、この扉を開けない。

「何言ってんすか、俺はもう随分前からあんたのもんです。俺の命なんて、とっくにあんたに差し上げてますよ」

ふわりと頭上に置かれた掌の感触。耳朶を打つ、低くやわらかな声音。
堪え切れず零れ落ちた涙を振り払い、私は無言で頷いた。大丈夫。私は大丈夫だ。

「私の存在に代えても、決してお前を死なせはしないわ」
「嬉しい御言葉ではありますが、そりゃ俺の科白でしょ」

困ったような、呆れたような小さな笑い声が聞こえて。
それから軽く、背を押された。
不思議なことに、たったそれだけで力が湧き上がる。

「ハク、行くよ」

そう一言宣言し、私は玉座へと続く扉に手を掛けた。



✳︎



扉の先に拡がる、広大な広間は只仄暗い空間が存在するばかりで他には何もない。
正面に鎮座する、国王のみが座することを赦された場所ーー玉座には誰も居ない。
そればかりか、玉座の背後に控えている筈の重臣や将の姿も見当たらない。
予想していた顔触れの不在に思わず息を詰めた私の背後から、痛いほどの緊張感が奔る。
重く沈んだ空気を震わせ揺り動かす稲妻のような、殺気にも似た感触に思わず背後を振り返ると、険しい表情を隠そうともせぬままに雷獣と呼ばれた男が玉座の向こう、豪奢な刺繍で飾られた緞帳を見据えていた。

「出て来い、何故隠れている」

低く抑えた、だが良く通る声が空間を震わせる。弾かれたようにハクの視線を追えば、しゃらりと軽く渇いた音を立て緞帳の奥から忘れ得ぬ人が姿を現した。
ゆったりとした仕草で緞帳を掻き上げ玉座の横へと進む彼の淡い髪は、仄暗い空間でも尚明るく優しい光を放っている。

「すみません、隠れるつもりはなかったのですが……」

お二人に掛ける言葉を、探していて。などと。
昔と変わらぬ調子で微笑むスウォンの様子に、背後から伝わる緊張感は純然たる殺気へと変化した。

「てめぇ……!よくも抜け抜けとーー」
「ハク!止めなさい!」

強く言い放ち、私は玉座の横に佇むスウォンへと首を垂れた。この礼に服従や尊敬の意味はない。只此方の非礼を詫びるためのものだ。

「顔を上げてください。すみません、わざわざお越し頂いたのに出迎えもせず失礼しました」
「ーー玉座に座ったらどう?貴方が、座するべき場所でしょう」

顔を上げ努めて冷ややかに告げると、懐かしい柔和な美貌が寂し気に微笑んだ。嘗て焦がれた微笑みに、捨てた筈の心の欠片が鈍く疼き私は眉を顰め彼から僅かに視線を外す。

「国王のお呼び立てと伺ったのだけれど?」
「……はい。ですがーーそうですね、場所を移して頂けますか?貴女と二人で、お話したい」

何処か言い淀む雰囲気を見せるスウォンの様子に、私は深く息を吸い込み口元を引きしめる。周囲に意識を遣るが潜む人影も気配もない。人払いをしてあるのか。詰まりは此方にもそれを求めているという訳だ。

「……分かったわ。ハク、此処で待っていて」
「ヨナ姫!」

スウォンの申出に是と告げた私を制止すべく、背後から名を呼ぶ声が鋭く響く。聴き慣れた彼の声音には切羽詰まったような、明らかな焦燥が宿っていて、私はそれを密やかな歓喜と共に受け取った。心を震わせる、何て悲痛な声なのだろう。そう、何時だってこの人は私の喪失を怖れている。そんなことは随分前から知っているけれど、改めて向けられた彼の感情がとても誇らしく思えてならない。

振り向いた処で何かが変わる訳ではない。引き返すことも、共にこの場に立ち向かうことも出来ない。それを望んだ瞬間、私は敗北する。
けれど一度だけ、ほんの一瞬で構わないからお前の顔が見たい。そう願い振り向いた先に見える見慣れた男の姿は、私が胸に思い描く姿と同じ精悍なものなのだけれど。

その目は何なの、お前。まるで親を探す幼子か、飼主に捨てられた仔犬のよう。これが高華の雷獣だなんて笑わせてくれるじゃない。

「ーーハク、大丈夫よ。ちゃんと戻って来るから」

精一杯の笑顔で告げて、私はハクの返答を待たずに玉座へと向き直る。もうこれ以上は留まれない。私の足が、止まってしまう。
皆の前で気丈に振る舞うことには慣れている。けれどそれは、寄り添い支えてくれる存在があるから出来たことだ。

ーー出来るのだろうか、独りで。

「いいわ、行きましょう」

自らの想いを振り切るように告げ、足早に歩を進める。懐かしい人の後姿を追い、玉座の奥の緞帳を抜けて。

私を追う足音は、聴こえては来なかった。



✳︎



幾つかの扉を越え幾つかの回廊を渡ると、やがて見慣れた景色に辿り着いた。
此処は表宮殿の最深部。このまま回廊を進めば住み慣れた奥宮殿だ。

「分かっているとは思うけれど、もしもハクを殺したら私は貴方を決して赦さないわ」

今までずっと無言で後を付いてきた私の、前触れもなく発せられた言葉に驚いたのかスウォンは背後を振り返り、鮮やかな若草色の双眸を此方へと向けた。交錯する視線に、けれど微かな痛みの他は何も感じない。何時の間にか、私はこんなにも冷静に貴方を見詰めることが出来るようになった。

「ご自分の身ではなく彼の命の心配ですか。ハクは愛されていますねぇ」
「……言葉遊びをしてるつもりはないわ。貴方と刺し違える覚悟くらい、出来ている」

飽くまでも淡々と言を紡ぐ私に、スウォンは困ったように肩を竦め、戯けたような、それでいてやわらかな笑顔を浮かべた。
少しだけ胸が痛んだ。その笑顔一つに舞い上がっていた頃がとても遠く、そして懐かしく感じる。

「それは勇ましいですねぇ。ですが、私にはまだ為すべきことがありまして、簡単に死ぬ訳には参りません」
「だったら私を殺すといいわ」

表情一つ変えず、言いたいことだけを言い口を噤む。彼を相手に今更下手な駆け引きなどするつもりはない。だから事実だけを伝えた。
スウォンは今、高華国中で噂されている“緋龍王の生まれ変わり”を懐柔こそすれ害することはないだろう。けれどハクの存在は私を動かすのに邪魔な筈だ。
スウォン、貴方がハクを排除すれば私は貴方を殺す。そして私も死ぬだろう。それでは本末転倒だ。だからといって貴方はハクを人質に私を動かすことは出来ないわ。ハクがそれを赦すような男ではないことを貴方は知っているでしょう。

「貴女は本当に情熱的な人ですね。全く……何だかハクが羨ましくなって来ました」

一瞬、凍り付いたように私を凝視し、それからスウォンはやはり昔のような笑顔で。

羨ましい?何を言ってるの、貴方は。

ざりざりとした、砂を噛むような感触が口内に巣食っているような。そんな不快感が心に重くのしかかる。
幸せ、ですって?羨ましいですって?私から、そして何よりも本来無関係だった筈のハクから総てを奪い去った貴方がそれを、そんな簡単に!

ぎり、と強く唇を咬み不快感を堪える。怒りに支配されてはならない。そうよ、目の前の男のように、笑うのよ。どんな怒りも憤りも笑って躱しなさい。

「……そう思えるのは貴方のお陰よ、スウォン」
「手厳しいなあヨナは」

ほら、こうやって。
どんな嫌味も恨み言も、謂れのない中傷や無責任な批判すら笑って返せるように。

「さて、着きましたよ。此方へどうぞ」

幾度となく行き来した、長く細い回廊を抜けたその先に位置する、以前と変わらぬ佇まいの小振りだが繊細な彫刻に彩られた木造の東屋の前に立ち、スウォンは嘗てと変わらぬやわらかな微笑を此方へと向けた。
奥宮殿へ渡った時からきっとスウォンは”会談“の場には此処を選ぶのだろうと半ば予想はしていたけれど、いざこの場に立つと懐かしい思い出が溢れ出て、壊れたまま放置した心が軋む。助けてと声には出さず唇に乗せたけれど、助けなんてある筈もない。
何時だって助けてくれた力強い腕を、私は望んで置いて来た。

軋む心を宥めようと深呼吸を一つ。一旦瞑目し、再び前を見据えると嘗て焦がれた背中を追い一歩、東屋への階段を昇る。

此処は、父上が建立した私の為の場所だ。
奥宮殿の更に奥、細い回廊で繋がれた小さな離宮と花園。そして花園の中央部に配置された東屋。王の娘とはいえ子供がままごと遊びに興じるにしては豪奢に過ぎるこの場所を、それも昔、何度も二人で足を運んだ東屋を選ぶなんて出来過ぎだわ。

「それで、用件は?」

わざわざ私の心に揺さ振りを掛ける真似をしての“会談”だ。それだけ本気ということ。目の前の美貌を真っ直ぐ見据え私は問い掛けた。
さあ貴方は何を望む?

「ーー貴女は、この花園に咲く牡丹のような人だと思っていました。大切に手を掛け育てられ、花園の中でこそ大輪の花を咲かせる女性なのだと」

私の問い掛けには答えず、スウォンは慈愛に満ちた眼差しを、主が変わっても知らん顔で咲き誇る花々へと注ぎながら過去を懐かしむような口調で語る。それから、相も変わらず優雅な動作で此方へと向き直った。

「ですが、今の貴女は厳寒の山脈でも力強く咲く山百合のようだ」
「……そんなに、大したもんじゃないわ。雑草で充分よ」

眩し気に双眸を細め見詰められ、何だか居心地が悪くて視線を逸らした。もしかしたらこの時点で勝敗が決したのかも知れない。そんな予感が一瞬脳裏を過ったが、絆されてなるものかと私はそれを奥歯を咬みしめ捩じ伏せる。

「雑草ですか?それはまた……」
「雑草だって捨てたもんじゃないわ。実は薬草だったりもするものよ」
「ああ、成程ーー」

くすくすと、さも可笑しそうに笑うとスウォンは一旦息をつき、その美貌に刷いた笑顔を消し去った。刹那、和やかにも感じられた空気が一変する。
ああ、始まりの鐘の音だ。

「ヨナ、貴女は少々派手に動き過ぎました」
「別に貴方の道を阻む真似はしていないわ」
「そうですね……寧ろ私は貴女に助けられている。感謝しなくてはなりませんね」
「感謝なんて要らないわ、別に貴方の為の行動じゃないもの。だから私を放っておいて。貴方が高華国の為の強い指導者で居る限り、私は貴方の邪魔になるようなことはしない」

けれど私の主張は予想通り徒労に終わる。真っ直ぐに私を見据えたまま、スウォンは感情の見えない口調で告げた。

「いいえ、邪魔です。私の政策が明確な形となり民の目に映るようになるには今暫くの時間を要します。ですが、貴女は国中を巡り献身的な行動と助言で直接民の心を動かしている。そして貴女の紅い髪。貴女を亡き王女と疑う者も少なからず居る上に、火の部族領民を中心に貴女は伝説の緋龍王として復興の象徴となりつつあります」
「ーーだから、私を利用しようと?それとも邪魔者は排除する?」

やはり予想通りのスウォンの言葉に挑むように問い掛けると、彼はほんの少しだけ躊躇う素振りを見せ、だがやがて淡々と言を紡ぎ出した。

「貴女を亡き者にすることは民意に反します。亡き王女が生きていて、彼女が緋龍王の生まれ変わりであるというならば、王女こそが高華国に君臨すべきとの声も上がっているくらいなのですから」
「上層部はそんなこと露ほども思ってないでしょうに」
「そうですね……。私と直接関わる彼等には今後の展望が視えていますから。単刀直入に申し上げますと、彼等は“緋龍王の生まれ変わりの王女”である貴女を私の后にと……それが最善策であると進言しています」
「ーー厚顔無恥もいいところだわ」

蔑みを露わにしながらも、私は実際そう来ると思っていた。何処までも予想通りの展開に乾いた笑いが浮かんでくる。
溜息を洩らし、私は改めてスウォンの表情を伺った。淡々と事務的に語るこの人の在り様は何処までも“王”だった。

王は孤独であるという。王には個人としての自由も権利も幸福も、呼ばれる名すらないという。この人はその覚悟を決め、自ら望んで王位に就いたのだ。

ならば私はどう在るべきか。先王の娘であるこの私は。

「ーーそれが、最善策なのね?私が貴方の后になることが、高華国の民にとって一番良いことなのね?」
「現時点では、貴女の処遇として最良策であると考えています」
「私が、否と言ったら?」
「ーー今は良い。ですが、やがて国内に歪が生まれる。恐らく民衆は貴女という英雄を求め何らかの行動に出るでしょう。貴女を担ぎ出す勢力も必ず出て来ます。そうなれば必然的に国は混乱し停滞する。最悪、内乱になりますね」

そうなれば、私は貴女を叛乱の首謀者として処刑することになる。冷ややかに告げられた科白に知らず戦慄を覚えた。けれどそれは不確定な死の恐怖からではなく紛れもない怒りに起因するものだ。

この私を処刑、ですって?叛乱を起こしたのは他ならぬ貴方でしょうに!

「ーー分かったわ、受けましょう。その代わり条件がある」

震える程の怒りとは裏腹に、随分と冷静な声が出た。良かったわ、私にしては上出来じゃない。
何故かしら、握りしめた拳が痛い。きっと爪が食い込んで血が流れているのだわ。ああ……またハクに叱られてしまうわねーー

「どのような条件でしょうか」

其処で思考は霧散する。目の前の男が紡ぐ懐かしい声音によって。そうだ、私は今彼と戦をしているのだ。感傷に耽ることも激情に身を委ねることもしてはならない。
破れた拳に更に力を込め、私は再びスウォンを見据えた。

「私の仲間に選択の自由を。旅を続ける者、故郷に帰る者、登城を望む者。それぞれだと思うけれど、彼等の望みのままに。それからーー」

一旦言葉を切り、それから僅かばかりの時間私はきつく瞳を閉じた。痛い。心の軋みが大きく音を立てているのが分かる。

ごめんね、ハク。きっと私の選択をお前も予想しているのだろうけれど。
約束は守るわ。ちゃんと生きて戻るから。大丈夫だからーーでも。

「それから、ハクを風の部族に帰してあげて。これ以上、私達の都合でハクを振り回さないで。条件は、それだけよ」

必死の思いで絞り出すように告げ、私は静かに此方を見る若草色の瞳から今度こそ視線を逸らす。
まだよ、まだ泣いてはいけない。しっかりと立ちなさいヨナ!

そうよ、広間でハクが待っているわ、早く戻らないと。戻ったら……ああでも駄目だわ、もう私ハクの前でも泣けないじゃない。

そうだ。私はもう二度とお前の胸で泣くことも、お前に触れることも出来ない。

私は、独りなのだ。

「ーーっ!」
「ヨナ」

突如襲い掛かる恐怖に全身が震え、両腕で己を抱きしめる私を呼ぶ穏やかな声音。優しい音階は只懐かしく、私は咄嗟にスウォンへと視線を戻した。

「貴女の覚悟、確かに受け取りました。貴女もまた王として、身を挺して民を守り抜く気概を持ち合わせている」
「ーーどういう、意味……」
「貴女を后に迎えることはやめておきます」

重臣の皆さんを説得するのは骨が折れそうですが。との言葉と共に苦笑を洩らし、スウォンは肩を竦めてみせた。だって貴女程の人を只の后に留めるなんて勿体ないですよ。そんなことを言っては笑う彼の真意が掴めず、怪訝な眼差しを向けた私にやわらかな視線が返される。

「貴女は民の為ならと、貴女から総てを奪い去り放逐した男の妻になることを承諾した。またその中で貴女自身と引き換えに仲間の安全を確保し、貴女と共にハクも生還出来るような条件を提示した。それ自体は複雑な取引ではありませんが、貴女のような姫君がよくぞ此処まで己の身を切り売り出来るものだと感心したのですよ」

にこにこと邪気のない笑顔とは裏腹なその内容に腹の底から怒りが湧き上がって来たのだけれど、私は努めて冷静に己の顔面に皮肉な笑みを貼り付けた。

「売女とでも言いたいの?」
「いえ、そんなーー」
「……売女で結構よ。だって私は現に今、身売りをしようとしたんだものーー生きる為に」

そして私は目の前の、澄んだ若草色の双眸を凝視する。こんな風に貴方を見据える日が来るなんて想像も出来なかった。
幼い日から憧れ続けた、貴方の瞳に今の私はどう映っているのだろう。

「ねえスウォン……こんな私は厭?」
「ーーヨナ……」

感情の読み取れない、若草色の瞳が微かに揺れる。気に入らない。今更そんな仕草なんて見せないでよ。

「だとしたら随分勝手な話だわ、貴方の行動の結果が今の私だというのに」
「すみません、そういうことではないので……余り苛めないでください」
「では代替案を!交渉決裂は互いの為に良くないでしょう?」

苛めたのは貴方でしょうに!いっそ叩き付けてしまいたくなる、どろどろと渦巻く色々な感情を押さえ付け声高に言い放つと、スウォンの瞳から揺らぐ光が綺麗に消えた。此処で私は彼の意図をやっと理解する。

ああ、結局の処私はスウォンに試されたのか。ほんの少しだけ垣間見えたと思った彼の心の動きもまた、私を試すための演技という訳ね。

「ーー私は近く、遠征に出るつもりです」

これでは彼の掌で踊らされているだけではないか。不愉快だなどと喚く暇があるのなら、次の一手を打たなければ。油断すれば噴出しそうになる複雑な感情を何とか抑えつつスウォンの提案を待つ私の耳に飛び込んで来たのは、思いも寄らぬ言葉だった。

「遠征ーー?何処に征くというの!お祖父様の時代のように領土拡大でもしようというの⁉︎」
「遠征先は戒です。目的は領土拡大ではありません。丸ごと戒を頂戴しに征こうかと」
「な……!」

まるで世間話でもするような気軽さで語るスウォンの、若草色の双眸に宿る光は決して穏やかなものではなくて。

本気なのだ、この人は。

「戒の荒れ様は御存知でしょう?南戒では皇帝が力を喪い中央の貴族が思うがままに振る舞い、地方では豪族が己の権力の為に争い合い、同時に我が国の領土をも虎視眈々と狙っている。北戒は荒廃が進み、民衆が、寒さと飢えと北方民族の侵略に怯えながら生活している」
「ーー知って、いるわ」
「戒は確実に滅びへの一途を辿っています。そしてそれが現実のものとなった時、高華国への影響は計り知れない。新たな支配者が攻め込んで来る可能性、幾多の難民の流入ーーそれによる治安の悪化や食糧難の可能性。他にも危惧すべき可能性は幾らでもあります」

スウォンの話はとても現実味を帯びていて、私には返す言葉が見付からない。今すぐではないかも知れないけれど、放っておけば何時の日か確実にスウォンの予言通りになるだろう。そして今のスウォンの立場では戒の内政に干渉することも出来ず、高華国の国力ではあの規模の大国を養うことはおろか支援することさえ難しい。

「ですから私は戒を獲りに征くのです。流石に無血開城とは行かないでしょうが、犠牲は最小限に抑えるつもりですから」

大丈夫ですよとふわりと微笑うこの人を、私は黙って見詰めることしか出来なかった。
この人は高華国の為に自ら戒を立て直すつもりなのだ。其処までして、この人はーー

「ーー貴方は、凄い人だわ。スウォン……それで私は、何をすればいいの?」

知らず、唇から言葉が滑り出た。それはスウォンの指示を仰ぐ言葉。既に勝敗は決してしまったのだ。貴方の意志に圧倒された、私の完全な敗北だ。
だからといって無条件降伏は出来ないと、さっきの条件は変えないわと主張すれば勿論ですと返って来る。

「ヨナ、貴女には高華国を束ね護っていただきたい」
「それは国王の后として、ではないのね?」
「国王として、で構いませんよ」

どうせ私は遠征先で、国王の真似事をする訳ですからね。
戯けた口調で言いながら、スウォンは酷く懐かしい、やわらかな微笑を私へと向けた。細められたその双眸は、何故だか微かに寂し気な色。

「后として、というのも一応考えてみたのですが、やはり勿体ないかなと思ったのと……そうですね、他に想う人が居る女性を妻に迎えるのは流石に切ないものがありますからーー」

残念ですが、などと。本来なら怒りで平手打ちの一つや二つ御見舞いしたくなるだろう科白は、最早私を傷付ける刃ではなく。

「ーー本当に貴方は、嘘つきね」

幸せなど、求めていない。王であるため総てを切り捨てて来た貴方にとって、想いなんて。そんなものは塵芥ほどの価値でしかないくせに。

「ーーああ、嘘つきついでに撤回したいのですが、ハクを風の部族に帰すことは考え直してください」

その言葉を肯定も否定もせず、スウォンはよりにもよって私が何にも増して優先する条件をいとも簡単に翻した。
彼が掲げる“王”とは、かくも非情な存在なのか。緊張が背筋を走り、知らず息を呑む。

「……遠征に、ハクを帯同する気?もういい加減にして!」
「いやいや、それは私がハクに殺されますから」

思わず語気を荒立てた私に、スウォンは大袈裟に掌を振り否定の意思を示した。

「事が事なので、今回はジュドさんをはじめ空の部族の幹部や、軍部の中枢をごっそりと連れて征きます。勿論部族の新たな幹部候補の育成は怠っていませんがーー即戦力は不足するでしょう。貴女の裁量で、貴女の馴染みの者を登用するのは構いませんが……軍部の中心には、彼を」
「ーーそれは、空の部族の将軍職に、ということ?そんなこと出来る訳がないわ!大体ハクは風の部族長だったのよ!」
「出来るでしょう、貴女なら。彼を空の部族に迎え入れる事がーー何なら私が後押ししましょうか?」
「ふざけないで!」

此処まで来てやっとスウォンの意図を悟った私は、気付いたら彼を怒鳴り付けていた。
“雷獣”の力を再び高華国の為に。スウォンのその気持ちは理解出来る。でも、彼を体制に取り込む為に私の想いを利用する形で縛り付けようなどと、到底認められるものじゃない。

予想外の反応だったのか呆気に取られた様子のスウォンに私は更に捲し立てた。

「そんなお膳立てを私が喜ぶと思っているの⁉︎人柱は私一人で充分でしょう!それに私は貴方と違って自分の幸せを放棄なんてしない。いい?私は、幸せになるの!」

そうよ、貴方は理想の王であるために総てを捨て、幸せを放棄する為に人としての感情すら封じている。でもそれは違うと思う。臣下だって民衆だって、自分達の為に尽力する敬愛すべき王の幸せを願わない筈がない。

「貴方さっき言ったわね、私に愛されてハクが幸せだと。だったらそれでいいじゃない。あの人が幸せなら私も幸せよ。だから私は王になったって、絶対にあの人を幸せにしてみせるわ!」

それから、驚きを隠そうともせず此方を只見詰めている、幼い日々を共に過ごした掛け替えのない従兄へとーー何年振りになるだろう、心からの笑顔を向けた。

「……スウォン、私は貴方が大好きだった。憧れて焦がれて、貴方の背中を追い掛けた。けれど私は城を追われた。貴方を腹の底から憎んだわ。憎んで憎んでーー心が引き裂かれるようだった。でも結局は憎み切れずに私は今、此処に居る」

あの時の痛みは、今も胸の奥底で疼くけれど。
壊れ掛け軋む心は、時折乾いた音を立てるけれど。

「ーーヨ、ナ……、貴女はーー」

私の名を呼ぶ懐かしい声。けれどこんなにも掠れた貴方の声を私は知らない。

それ以上、何か思ったつもりはなかった。
勝敗は既に決していて、今更彼に私を揺さ振る意図はないだろう。だからこそ私は深く考えることもなくーーそれはとても不思議な気分で。

嬉しい訳でも哀しい訳でもないのに。
何故だろうーー涙が、溢れる。

「私は……私は今、心からーー高華国国王……貴方を、愛しているわ」

頬を伝い落ちる涙をそのままに、私は潤む視界の先に佇む麗らかな春の日差しの化身のような従兄を見据えた。

貴方は初恋の人だった。貴方に向けた、嘗てのあの暖かな気持ちは、今はもう随分と変貌してしまったけれど。
焦がれる想いも求める激情も、今では総てあの人に渡してしまったけれど。

それでも、今も尚続くーーいいえ、今改めて生まれた敬愛の念。
己が身を削り高華国を護ろうと、茨の道を独り進む孤高の指導者へ、ありったけの笑顔で私は告げる。
伝えなければならない。私の……いいえ、この国に生きる人々の想いを。
例えそれが貴方にとって塵芥と同じであっても、路傍の石でしかなくとも。

「私は、必ず幸せになるわ。だから貴方もーーどうか、幸せに」

涙は止め処なく流れ落ちる。けれど言葉に詰まることも息が閊えることもなく、気付いた時には私はその場に跪き、最上の礼を取っていた。

ーー初めての、スウォンという国王に対する心からの礼だった。



✴︎




「そろそろいいっすか?お迎えにあがりましたよ、ヨナ姫」

前触れもなく耳朶を打つ、聴き慣れた男の声に弾かれたように顔を上げれば、視界の先ーー奥宮殿へと続く回廊の柱に寄り掛かるように佇む、やはり見慣れた男の姿。

「ハク⁉︎どうしてーー」
「此処が何処で俺が誰なのか、分かってて言ってますか?あんた」

驚きの声を上げた私に、ハクは組んだ腕を緩慢な仕草で解くと呆れたように肩を竦める。それからスウォンへと視線を向け、不機嫌を顕にした面持ちで彼を一瞥すると此方へと歩き出した。

「ハク、いらっしゃい。お待たせしてすみません」
「表も奥も人払いとは、余程死にたがりの王サマと見える」
「いやぁ、そんな」
「褒めてねーよ」

全く悪びれる素振りもなくにこにこと笑い掛けるスウォンとは対照的に、ハクは仏頂面のまま嫌味交じりの言葉を吐き捨て東屋へと足を進めた。

「そんなに怖い顔しないで。心配しなくてもヨナには何もしてませんよ」
「……たりめーだろ。でなけりゃてめえは此の場で八つ裂きだ」

人払いされているとはいえ、単身乗り込んだ敵陣の最奥で発する言葉としては不穏に過ぎる科白を躊躇うことなく告げ、ハクは私へと視線を移す。不躾な視線は何時ものことだけれど、それとは別の探るような眼差しが痛い。ついさっきまで後ろ暗い交渉に身を投じていたのだから、この居た堪れなさも当然といえば当然か。
そんなことを思っていると、何かを見咎めたのかハクは此方へと近付き、平時の私の扱いと比べると些か乱雑な仕草で私の手首を掴み掌を上へと向けさせた。

「……ッ、痛……」

途端、ひりつくような痛みを覚え思わず声を上げた。晒された掌には、くっきりと刻まれた紅い爪痕。その一部は皮膚が破け血が滲んでいる。

「ーーーおい……」

私の掌を食い入るように見詰め、それからハクは再びスウォンへと向き直った。刹那、周囲の空気が悲鳴を上げるかのような、素人目にもそれと分かる程の殺気がスウォンに襲い掛からんと静かに牙を剥く。

「駄目よハク!何でもないの!私は大丈夫だから……!」
「あんたには訊いてねえ。ーー説明しろ、スウォン」
「ハク‼︎」

間違ってもこの場で刃を交えるようなことがあってはならない。総てが無駄になってしまうと私は咄嗟に彼の正面に立ち塞がった。
あ、これは私かなり痛い思いをするかも知れないわ。でもそうなるとちょっと後が面倒なのよねこの人。

けれど覚悟した何らかの衝撃は私に襲い掛かることはなく、代わりに聴こえて来たのは深い溜息。
空間を支配していた痛い程の殺気は何時の間にか息を潜めていた。震えるような緊張感は未だこの場に張り詰めていたけれど。

顔を上げれば、ハクは射殺しでも出来そうな視線をスウォンへと向けていた。だがそれもやがて只不機嫌であるだけの眼差しへと変化する。

「ーースウォン、俺はお前を赦しちゃいねえ。お前が今無傷で居られるのは、この人の命令があるからだ。精々姫さんに感謝するんだな」

吐き捨てるように告げると、ハクはスウォンから私へと視線を移した。掌の有様とか今の無謀な行為だとか、言いたいことが沢山あるのだろう。きっと叱られるのだろうと思い身構えるが、私を映し出す彼の双眸に宿る光はとても穏やかなものだった。

「じゃ、そろそろ行きますよ。姫さんーー頑張りましたね」

ポンと頭に掌を置かれ、労いの言葉を掛けられる。それはとてもやわらかな、壊れた心を癒すような声音。

「ーー当然、でしょ、っ……!」

馬鹿者。こんな処で泣かせないでよ。
溢れる涙を袖口で拭い、私は足早に東屋から奥宮殿へ続く回廊へと駆け出した。

「ーーヨナ、私も頑張りますね。私を含めた誰しもが、幸せを感じられるように」

立ち去る私の背中へと向けられた優しい言葉を、振り返ることはせずに聴く。

ーー胸の奥に巣食う痛みが、ほんの少しだけ消えたような気がした。



✴︎



静寂に包まれた奥宮殿を、ゆったりとした歩調で進む。住み慣れたこの場所がこんなにも静かだったことなんて記憶にない。人払いの影響もあるだろうけれど、此処には人の気配が殆ど感じられない。

「こんなに寂しい宮殿だったかしら……」
「あいつが望んだ結果だろう」

ぽつりと洩らした呟きに、斜め前を歩く幼馴染は感情を抑えた声音で切り捨てるように言い放つ。嘗ての奥宮殿の暖かな賑わいを知る彼もまた、一抹の寂しさを感じているのだろうか。
一歩前を行くハクの表情は硬く、感情を読み取ることが出来ない。それに表情だけではなく、東屋を出てから今まで会話が殆どない。回廊を渡っていた時などは、東屋での緊張が解けたからか足が震え、転ばないように注意を払うのが精一杯で会話どころではなかったけれど。
其処でふと気付いた。回廊でのハクは特に私を気遣う風でもなくて…何時もなら支えてくれたりだとか、場合によっては抱きかかえてくれたりもするのに。
別にそんなことを期待した訳ではないけれどーー

「ねえ、ハク」

おずおずとハクの様子を伺いながら、回り込んでハクの顔を覗き見る。けれど彼は表情一つ変えずに私を一瞥するだけだった。

「何です」
「ハクーー怒ってる?」
「別に」

……怒ってる。

ちょっとお前一体何が気に入らないのハッキリ言いなさい!なんて普段だったらピシャリと告げてやるのだけれど、今日は後ろめたいことが沢山あってどうにもーー出来れば、触れたくない。
だけどそういう訳にも行かないだろう。近いうちにスウォンと改めて話す必要だってあるのだ。
恐る恐る、私はハクへと問い掛けた。

「あの……ハク、さっきのスウォンとの話だけどーーどのあたりから聴いてたの?」
「……まあ、それなりに。いえーー東屋での会話は、大体」

ーーそれは、怒ってるわね。
怒らせただけならまだしも、いい加減愛想を尽かされたりとかしていたら…どうしよう。

独りきりで立つことがどれだけ辛く苦しいものか、ハクを手離す覚悟でスウォンと対峙した私は痛いほど理解したばかりで。だから今の状況は、ちょっとした恐怖だった。

早鐘のような自らの鼓動に、落ち着きなさいと胸に拳を置く私の様子をちらりと一瞥すると、ハクは溜息と共に苦笑を洩らす。

「ーー姫さん、あんたが今、何に対して俺が怒っていると思ってんのか言い当ててみましょうかね」

身に纏う空気が多少なりともやわらかく変化するのを感じ、私はハクの表情を確かめた。其処に見えるのは困ったように私を見遣る何時も通りの彼の立姿。

「そーっすね、先ず…….スウォンとの婚姻の話ですが……まあ、ある程度織込済みでしたし、いざって時は掻っ攫って差し上げますんで。ーー身売りってのは、どうかと思いますがね」
「ーーうん、ごめんね。お前が居るのに……」

それでもやっぱり謝っておきたくて。
掻っ攫われたらそれはそれで困るんだけどーーとの言葉は呑み込みつつ、謝罪の言葉を素直に告げた私の顔を少しだけ驚いた様子で見詰めると、ハクは私から視線を逸らす。どうしたのかしら、何だか少しーー余所余所しいような。

「ハク?」
「ーーいや、何でも……ああ、身売りね。あんた俺を左遷しようとしましたね。それについては前言撤回しましょう。それなりに怒ってます」
「だって!それはハクをスウォンの好きにさせたくなかったし……それに、スウォンの后になるのにハクが傍に居たらーー私が、辛いじゃない」
「……。俺はガキの頃から、あんたの言う処の辛い人生を歩んでたんすけど」
「知らないわよそんなのっ!」

意趣返しとばかりの幼馴染の科白に私は思わず声を張り上げた。そんなの、一緒にしなくたっていいじゃない。だって知らなかったんだもの、お前の気持ちなんて。

「そうよ……知らなかったわよ。知ってたらーー」

もしも知っていたら?あの頃の私が、ハクの気持ちを?
知っていたら、何か変わったのだろうかーー

「はいはい、そーっすね。それは困りますね、俺が」

もしもあの時、なんてことを考えてしまうのは私の悪い癖だ。考えるほどに、選択されなかった可能性に心が引き摺り込まれてしまう。こんな境遇でなければ取り留めもない昔話で済むのかも知れないけれど。
私の思考を打ち切るようにーー実際打ち切る意図があったのだろう。ハクは軽い口調で戯けてみせる。

「折角将軍兼王女様の専属護衛なんつー破格の稼ぎが得られる要職に就いたっつーのに、そんな私的な感情の所為で失職なんて冗談じゃねえ」
「……。分かったわよ、これからは存分に稼がせてあげるから身を粉にして働きなさい」
「いやぁそれよりも俺、三食昼寝付きの方が魅力的なんすけどーーそういやあんた、俺の婿入りをあっさり断ってくれやがりましたね。玉の輿とかすげえ憧れてたのに」
「……は?」

耳を疑うような、ちょっと聞き慣れない幾つかの単語に戸惑ったのか、我ながら間抜けな声が出た。
待って。待ちなさいハク。何時からお前はそんな怠け者になったのかしら?でもそうね、お前は此処に居た頃は割と怠けていたような気もするわね。大体ね、玉の輿に憧れるような怠け者は玉の輿になんて乗れないのよ。

「……お前、そんなことを怒っているの?私の后になったって、きっと良いことなんて何もないわよ?」

もしかしたら母上のように、お前も殺されてしまうかも知れないわ。声に出せば現実になってしまいそうな不吉な言葉を、私は胸の内で語り掛ける。
けれど私の思いとは裏腹に、ハクは肩を震わせ堪え切れないといった様子で吹き出した。

「ちょっ……!后っすか、この俺が!面白いこと言いますねー姫さん」
「え⁉︎だって…….違うの?」
「いやー愉快愉快!だってあんた、大刀振り回す后なんて聞いたことないでしょうが。それに幾ら俺が有能でも流石にあんたの子供とか、産めませんよ」

何がそんなに可笑しいのか、三食昼寝付きを要求する怠け者が出来れば想像したくないような例えまで持ち出してくつくつと笑う。そうね確かに后は無理よね、言い方が悪かったわと思った辺りでふと考えた。

「……ねえ、怒ってないの?」

小首を傾げ、私は漸く笑いが収まりつつある様子のハクを見上げ問い掛けた。後ろ暗い遣り取りをした挙句、私はスウォンに負けたのにーー

「はい、だから別に怒ってませんて言ったでしょう」
「だけど……」
「ああ……まだ何か気にされてますか?他には……勝敗を気にしてますかね。あんたがあいつを認めちまったことはーー俺が怒る筋合いじゃねえっすから」

感動するくらい、姫さんは立派でしたよ。

やわらかな眼差しと珍しくも手離しの称賛を贈られた私は、何時もならばそれだけで心が蕩けてしまいそうになるのだけど。

「だけど!東屋を出てから一言も喋り掛けてくれないし……その、私に触れたくない、みたいな…」

だったらどうしてと私は非難の声を上げるけれど、不満交じりの自分の言葉は先程の恐怖感を思い出させた。不意に揺り起こされた感覚に、私の問い掛けは途中から歯切れの悪いものとなってしまう。
するとハクは何かを言い淀むような、困り果てた表情で私の髪を、掌でふわりと撫でた。

「ーーすみません、不安にさせちまいましたね」
「そうよっ……!怒ってないならどうしてそんなに冷たい態度を取るのよ……!」
「冷たい?俺がですか」
「そうよ……愛想尽かされかと……思ったわ……」

けれどそのような意図は本当になかったようで、ハクは一瞬目を瞠り私を見詰めると、やがて観念したかのようにすみませんと繰り返す。

「そんなつもりはなかったんです。只ーースウォンに啖呵切ったあんたの姿が、何時にも増して魅力的だったんで…少し、当てられちまいました」

思いも寄らない言葉を向けられ、私は思わず瞬きと共にハクの顔を伺い見た。もしかしたら縋るような視線を送っていたのかも知れない。心に密かに宿る恐怖感を宥めるように、優しい仕草で私の髪を梳く彼の指先がそのまま頬へと触れる。

「気持ちを落ち着かせようと、なるべくあんたに触れないように距離を置いたんですけどね」

困りましたね。そう言って苦笑を洩らすハクを見詰めたまま、私は彼の言葉を反芻した。啖呵を切るーースウォンに?そうだったかしら。そういえばそんなことが……あった、わ。

「ーーーっ!」

スウォンとの遣り取りが次々と頭の中で甦り、私は思わず息を呑んだ。
何というか、とんでもなく恥ずかしいことを…喚き散らして、いたような。
到底本人を前にしては言えないようなーーだってまさかお前が聴いているなんて思ってなかったから……!

途端、頭に血が上り顔が火照る。指先で触れられた頬が熱い。お願い待ってその手を離して。困るのは私の方だわ。

「やめてハク、これ以上言わないで。恥ずかしいからっ……!」
「そーっすか?寧ろこっちは今すぐ押し倒したい気分なんですけど」

堪らず声を上げた私に対しハクはさらりとそんなことを口に出す。ハクの意地悪。また私をからかっているのねと睨み付けた、彼は至って普通のーー何時も通りの顔をしていた。

「お前、何言って……」

ハクの真顔でのこの手の冗談は、意外と冗談ではなかったりするのだ。そのことを嫌という程思い知っている私は咄嗟に身構えるけれども。

「何って……責任取って下さいって話ですよ。あんた折角の俺の努力を無駄にしたんですから」

いいですよね。なんて、今日の晩御飯の話でもするかのように。

「いい訳ないでしょ!たわけ者っ!お前此処が何処だと思ってるの⁉︎」
「緋龍城奥宮殿内回廊と認識してますけど?此処がお厭なら、空部屋は幾らでもあると思いますが」
「そういう意味で言ってるんじゃないわよ馬鹿!皆が待ってるのよ、早く戻らなきゃ……!ほんとにっ……少しは我慢しなさい!」

抜け抜けと恥ずかし気もなく、人の羞恥心を煽るようなことを平気で言えるこの男の性格は何とかならないのか。怒りを顕に私は声を張り上げたが、相も変わらず飄々とした態度の幼馴染は私の顔を覗き込むと、視線を合わせたまま薄く笑った。

「ほー……我慢、ねえ」

私の姿を映し出す、紺青よりもまだ深い色の瞳に昏く揺らめく炎の欠片が見えた。

ーーこの色を、私は知っている。

「……っ!駄目、ハクーーー」

囚われる。そう思った時には遅かった。
手首を掴まれ引き寄せられ、そのまま唇を重ねられた。抵抗する僅かな時間も思考する余裕も与えられず、口内を侵される感覚が頭の芯を麻痺させていく。
普段戯れに交わされる啄むような口付けではない、まるで蹂躙するかの如きそれを、けれど確かに其処に宿る情熱が垣間見える私には受け入れる他なかった。せめてもと眉を顰めるけれども、だからといって何かが変わる訳ではない。
冗談では済まないハクの行為を拒むだけの材料は、本当は幾つも持ち合わせて居るのだろうけれど、今の私にはそれを引き出すだけの思考力も、引き出す意思も有りはしなかった。
元々、決して乱暴に私に触れることはない彼の口付けはこの場においても変わらず激しくとも丁寧でーー結局、応えてしまう。

やわらかく歯列を辿り幾度も絡み付いてくる舌の感触に震えが走り、堪え切れずにくぐもった声を洩らすと、それを息苦しいとでも受け取ったのかその激しさは鳴りを潜め、やがて唇が離された。
上がる息を抑えることも出来ず、凍り付いたみたいに動けないで居る私を至近距離から見詰めるハクの双眸は、今も変わらず確かに昏い炎が宿っているのだけれど。

「ーーハ……ク……?」
「……はい。ーーああ、まだ……ですね」

何故だか、この期に及んで尚冷静な光を湛えた眼差しを向けるハクは、名を呼ぶ私の声に対し意味のよく分からない呟きを洩らした。

「……な、にが……、っ!」
「ーー黙って」

これで終わりかと思っていたら、今度は片腕で私の腰を支え、耳元に顔を埋め一言囁くと首筋から肩へと唇を這わせた。それから空いている方の腕を背に廻し、指先で以って衣服の上から私の背筋を辿り、行き着いた先から今度は身体の輪郭をなぞるように触れてゆく。
ぞくりと全身に戦慄が走り、堪え切れず洩れ出た声と共に身体が跳ねた。足元がどうしようもなく震え、片腕だけで私を支えるハクの広い背中に両腕を廻してしがみ付きながらもうやめて欲しいとかぶりを振るけれど、彼にそれを聞き入れる様子はなかった。
ハクの上着を握りしめた掌が灼けるように熱い。ああ、そういえば怪我をしてたんだっけ……もうどうでも、いいけれどーー

「……っ、だめ……っこんな、ところで……っ」

やっと口にした途切れ途切れの懇願も、遂には意味を為さない只の音韻に変わる。厭でも届く自分の声に耳を塞ぎたくなるけれど、首元から背中へと駆け抜ける小さな衝撃に、心の片隅に残るなけなしの矜恃も呆気なく霧散した。

私の身に熱を灯す遣り方など既に知り尽くしているだろうこの人に、囚われた時点で私の負けだったのよ。
ああ、今日は何て日なのーー

ぽつりぽつりと肌に灯った幾つもの炎はゆっくりと拡がり、やがて行き場を失くして内へと篭る。身体の奥がどうしようもなく疼く。どうしたらいいの、お願いよ助けてハク……!

「ーー姫さん、立てますか?」

甘い予感に瞳を閉じた私の耳元で、しっとりと低く優し気な声が響いたけれどーーお前、今……何て言ったの。

「大丈夫ですか?立てます?」

気遣いの言葉と共に身を引いたハクの言葉は、確かに耳元で囁かれたものと同じ響きで。私はその意図が分からずに、咄嗟に目を開けるとそのまま視線を彼へと向けた。

「……ハク、お前ーー」

続く言葉が見付からず、茫然と立ち尽くす私を見遣り、黒髪の幼馴染はくつりと小さな笑い声を立てた。

「……ああ、あんた本当にいい顔しますね。そんな目で見られると、此処で終わらせんのが勿体なくなる」
「ーーお前……っ!最初っから……!」

ーーやられた。
漸く今の行為の意図を察し、怒鳴り付けようとするけれど恥ずかしくて声も出ない。
代わりに精一杯睨むけれど当然効く筈もなく、ハクは私を見据えたまま、嫣然とした笑みを浮かべた。

「これでおあいこですよ、姫さんーーそうですね……夜まで、我慢してくださいね」

違う。嫣然なんて表現、間違ってもするもんじゃないわ。お前のその顔、悪戯に成功した子供そのものの表情じゃないの。
ああもう、信じられないこの大馬鹿者!

けれど、昔この場所で幾度となく見てきた悪戯めいたハクの笑顔がとても懐かしくて、何だか怒りを削がれてしまった私はそれでも何か一言と、憎たらしい笑顔を見せる幼馴染に向けて、ハクの馬鹿。とだけ憮然と呟いた。







『路傍の花』ーEpisode.1 “Little Flower”
何処でだって、君は燦然と咲き誇る。








ヨナ姫二連敗の日。
シリアスを目指したつもりが、ハクのセクハラで終わる。おかしいなぁ……

常に乱高下する私のスウォン観ですが、このところ高値更新中でして、17巻までの情報を元に色々考えた結果、トンデモ結末予想みたいになりました。

「幸福論」を主題に、未来話三部作予定の一話目です。今回は原作二年後くらいをイメージしました。

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ジャンル : 小説・文学

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え、ちょっと

キキ様

・・・kです。こんばんは・・・(´・ω・`)

ちょっともう・・・・(´・ω・`)

どうしたら・・・・どうコメントしたら・・・いいのか・・・・(´・ω・`)

どうしてくれるんですか・・・(´・ω・`)



「すいません、明日は最新作10回以上熟読して妄想膨らませますんで会社休みm(ry」


ゲフッ・・・
色々、色々言いたいことはあるんですが、ちょっと言葉にならないというか、画面を直視できないというか、
とりあえず一言文句が言いたいです。


キキ様のバカーー!!
キュンキュンして眠れなくなるんじゃーーー!!!(感涙)
明日の仕事どうしてくれるんじゃーーー!!。・゚・(ノД`)・゚・。


・・・ハァハァ。
公衆の面前で、失礼いたしました・・・

これ、三部作なんですか?
どうしましょう、完結までに私の心臓が痙攣起こさない自信がな・・・・

とりあえず、救心準備して(←不足)、第一作目の再々々(省略)々読と妄想推進しつつ、二作目、三作目を全裸待機します!!

ありがとうございます!

うわぁ有難うございます…!

kさま

こんばんは、お仕事お疲れ様です。
御多忙にもかかわらず、コメント有難うございます嬉しいです〜

え、キュンキュンしますか?まじで⁉︎
いやもうホント嬉しいというか感無量というか、ドキドキしてます私。
書いてはみたものの、グダグダな出来に萌えどころもイマイチ分からず、その上締めがセクハラってどうよ…と自分にツッコミつつもまあ、それなりに楽しかったからいいや☆とアップしたのです。
それがまさか、キュンキュンとは!うわぁもうどうしましょう嬉し過ぎます!

えっと、一応現時点では三部作プラスαを予定してますが、多分次は今回とは毛色の違ったssになるかと。頑張って明るいのを目指します。

ではでは。
いつも本当に有難うございます(*^^*)
プロフィール

月桜キキ

Author:月桜キキ
月桜キキと申します。
数年振りに二次創作の世界に出戻って参りました。普段はしれっと会社員やってます。

暁のヨナ、聖闘士星矢(無印)を中心に、他ジャンルも時々。
NLBL混在しますのでご注意!

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