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『GOLD』2. dialog and reminiscences

やわらかな寝台の中で、水面を漂うような心地良い微睡みから覚めた。

ゆっくりと瞼を開くと透明な水底に瑠璃をひとかけらだけ沈めたような、限りなく無色に近い色合いの空気が視界に拡がる。
ほんの少し視線を上げれば、障子戸の隙間から真白の光が静かに降り積もり、夜明けの冷やかな空間に優しい熱を淡々と撒き散らしている。

起き上がろうと身動ぎするけれど、気怠い躰は見事な位私の意思を拒絶していた。全身が怠くて、痛い。初めて弓を引いた、あの頃の鍛錬の後のようだ。
朝の空気を吸えば少しはましになるかも知れない。そう思い深呼吸するも何となく喉が閊えてしまう。
そういえば、昨夜は何時眠りに就いたのだろうか。最後に見上げた空の色は、白んではいなかったと思うのだけれど。

滑らかな布地の感触が心地良くて、やわらかな寝台に身を任せていると唐突に喉の渇きを覚え、私は思わず眉根を寄せた。

「……お水……」

ぽつりと洩らした呟きは酷く掠れ、自分の声じゃないみたいだ。
潤いを欲している躰は、けれどもまともに動かない。とにかく何もかもが億劫で瞬きすら重く感じる。
もう少し眠ればいいのかも知れないけれど、その前に喉を潤さないと乾涸びてしまいそう。

「おはようございます。どうぞ、水ですーー起き上がれますか?」

どうしたものかと思っていたら頭上から聞き慣れた声が降ってきた。視線だけ彷徨わせて声の主を探せば寝台横の、丁度私の肩先辺りに見慣れた姿がーー私の呟きを聴き取ってのことだろう、水を継いだ器を片手に佇んでいる。
相変わらず優秀な従者だ。私は苦笑いを浮かべながら既に身支度を整えたハクの姿をぼんやりと眺めた。

昨夜の名残など微塵も感じさせない彼の清廉な出で立ちは、一瞬、あれは全て夢だったのではないかと錯覚させ、けれども躰のあちこちに刻まれた彼の記憶が、そうではないのだと私に言い聞かせていた。
ハクの片腕に背中を支えられ、寝台に半身を起こした格好で器に継がれた水を一口流し込んだ。
喉を伝う冷たい水の触感に思わず身を硬くする。私はゆっくりと少しずつ、冷水を躰に馴染ませるように器の水を飲み干した。

やっと人心地が付いたと息を洩らし、改めてハクを見遣る。何時もと変わらない淡々とした表情と、凪いだ瞳。
向けられた眼差しはとても穏やかで、私への気遣いに満ちていた。それはとても嬉しいことで、不満などある筈がないのだけれどーーちくりと心に棘が刺さった。

深い湖の底で揺蕩うことすら忘れた、只息を潜め沈む水の色を映したような、静謐に過ぎる双眸に宿る昏い焔を昨夜確かに見たと思った、のに。

「……無理。動けないわ」
「そう、ですかーーすみません。でしたら今日は一日部屋で休んでいてください」
「うん……」

申し訳なさそうにそう告げるハクに私はこくりと頷くと曖昧に笑い掛けた。
昨夜のことを端的に考えれば、彼が私を気遣い、多少なりとも申し訳ないと思うのは当然なのかも知れない。そして私は本来なら彼を優しい男だと、喜ばしく思うべきなのだろう。だけど。

「ーーお前、後悔していない?」
「後悔?何故です。何よりもーーそれこそ自分の命よりも大事な女を抱いて後悔などと」
「……そういう、意味じゃなくて。お前、重くはないの?」

ハクの言葉は、昨夜のことを一夜限りの幻と彼が認識している訳ではなさそうで私は少し安心するけれど。

「……私が背負うと決めた覚悟を、お前が背負い返す必要なんて、ないのよ」

煙る紺青の双眸に視線を合わせ告げれば、彼は驚いたように私を見詰め返す。ああ、やっぱりそうなのねと小さな溜息が知らず、洩れた。

「ハク……私の覚悟は、私のものよ」

ぽつりと、けれどもはっきりと彼に告げた。私の覚悟、それは高華一と謳われた『雷獣』を、最早王女でもない私に彼の人生ごと縛り付ける覚悟だ。
きっとこの業は、途方もない重責と罪悪感として私を生涯苛むのだろう。喩え途中で彼が私から離れてしまったとしても。

この人はーー私が手を離せばきっと何処にでも行ける。何にだってなれる。きっと彼に相応しい華やかで賑やかな人生を謳歌出来るのだろう。

それを分かっていて、それでも私は彼を欲した。彼がそれを赦してくれたのをいいことに傲慢な慾に身を投じたのだ。
後悔なんてしていない。これからもするつもりはない。どれほどの重責や罪悪感を感じようと、却ってそれが後ろ暗い、残酷な慾を満たすのだと私はもう知っている。

けれどもハクは沢山の優しい言葉で私の業を引き受けようとする。それどころかこの人は自分の命を盾にしてまで、私が背負うべき覚悟を丸ごと背負い返そうというのだ。

それはとても嬉しいことで、けれども同じ位寂しくて、その選択を狡いと思う。
狡い人だと何度も告げた、昨夜の私の言葉をお前はどう受け取っているのだろう。

「ーー困りましたね。随分と誤解しておいでのようですが」

穏やかな瞳と表情のまま、ハクは小さく笑うと身を屈め私へと口付けた。
優しい、唇を重ねるだけのそれはやがて深いものへと変化していく。
緩やかに誘うような。昨夜の熱を、何処かで今も密かに燻ぶる焔を引き出すような。

ーーあ。
何かが、この人の中で変わったのだろうか。

絡み合う舌の感触に身震いしながらも、昨夜までとは確かに違う彼の様子を思う。
情慾に突き動かされてではなく、私が望んだからでもなく至極当然のことのように私に触れる。これは従者の所作ではないだろう。

「……お前、随分不遜な振る舞いをするものね」
「言ったでしょう、姫さんは誤解なさっておいでだと」

行動にそぐわない清廉な空気を身に纏ったまま、ハクは苦笑を洩らし今度は指先を私の頬から首筋へと滑らせた。昨夜の名残なのだろうか、ぞくりとした戦慄が背中を駆け抜け躰が跳ねる。
ああーー本当に何かが、変わったのか。

「……此処でそんな貌を見せんでくださいよ。ま、朝から盛んのも悪くはねえとは思いますがね、そろそろ『お母さん』が朝飯の仕度に掛かる頃合いなんで」
「さか……!お前どの口がそんな……!」
「はいはい、すみませんね」

揶揄するでも、人の悪い笑みを浮かべるでもなくやわらかな表情のまま、ハクは何も身に着けていないことを慮ってのことだろうか、上掛けごと私を抱き上げた。

「ハク?」
「運びますから、今日は部屋でごゆっくりどうぞ」
「ーー部屋、って」

どくり、と鼓動が一つ胸を打つ。
昨夜何の為にハクの許へと忍んで来たのか思い出し、私は身を硬くしてかぶりを振った。あの部屋には行きたくない。だって私は逃げて来たのだ。彼の隣に立つべき女性の為に設えられたあの空間から。

「……此処に、居ちゃ駄目?」
「姫さん?……や、駄目っつーか、幾ら疲れが溜まったから寝てるったって流石に謝絶って訳にはいかんでしょう。ですからーー」
「嫌、なの」
「……昨日、何があったんです?」

それでもと繰り返す私の様子に只事ならぬものを感じたのか、ハクは私を抱えたまま寝台へと腰を降ろし真っ直ぐに視線を合わせて問うてきた。けれどもそこに探るような色も問い詰める意思も感じられない。
私は小さく息をつき彼へと問いを返す。やわらかな眼差しが、自然と私の言葉を引き出すことを不思議に思いながら。

「ハク……あの部屋は、誰の部屋?」
「あんたの部屋です」
「違うわ。昨日今日のことを言ってるんじゃない。あの部屋は元々ーーお前の妻になる人の為に設えたものでしょう?」

私の言葉に、ハクは驚いたように目を瞠り、それから何とも複雑な表情を浮かべ溜息を洩らす。

「ーーそう、思いますか?」
「……うん」
「でしたら、きっとそうなのでしょうね。あの人は何も言いませんでしたが」
「ムンドクは、きっとお前の将来を……それこそ結婚や後継のことも、とても期待してーーううん、楽しみにしていたのだと、思うわ」

ぽつりぽつりとそう告げれば、ハクが見せる複雑な表情の中に、ほんの少しだけ寂し気な色が浮かんだ。
きっとあの偉大な祖父のことを想っているのだろう。

「あの人は、此処を好きに使えと言っていた。だから好きに使いました。昨日今日の話ではなく、あの部屋はあんたのもんです。この俺が、初めて此処を訪れた時に決めたんです」
「ーーどう、して」
「何時かあんたに、あの部屋からの眺めを見せたかった。勿論そんな日は来ないかも知れない。でももしかしたらーー何時かあんたが王妃になって、子供でも連れて物見遊山にでも来ることでもあるかも知れないと」

ホント、祖父孝行出来ませんでしたねえ。なんて苦笑して、お前は。
そんな不確定な、それもお前に係わりのない未来の為に掛け替えのない祖父の想いを蔑ろにして。

「お前……馬鹿よ」
「忠義者と言って頂きたい」
「その要らない忠義のおかげで、昨夜私がどれだけ葛藤したと思っているの……」

泣きたくなるのを堪え、私は懸命に笑顔を浮かべながら言を紡ぐ。

「私の我儘が、お前やお前の妻になる人や、誰よりもムンドクの想いを踏み躙っているんだって……その上、お前達への申し訳なさよりも、お前の妻の部屋になんて居たくないってーー気が、狂いそうになって。何て私は醜いんだろうって思ったわ。結局自分のことばかりだって……っ」

言葉を重ねるごとに、昨夜私を追い込んだどす黒い感情が蘇り知らず息が詰まる。笑顔なんて到底保てず私は唇を咬み締めた。堪え切れず溢れそうになった涙は、そっと目尻に寄せられた彼の唇が押しとどめてくれたけれど。

「ーーそれで、俺の部屋に?」
「うん……ごめんね……」
「何故謝るんです、おかげで俺はこの上ない僥倖を得られたというのに」

困ったように笑うハクは何処か遠い眼差しでーー逡巡しているようにも見える。

「ねえハク、この家はとても綺麗に管理されているわよね。それはムンドクがお前の帰りを待っているということだわ。お前に寄せる期待も希望も、彼は捨ててなんかいない」

それを私以上に分かっているだろうハクに向かい、私は告げる。泣いてはいけない。あの底なし沼のような感情になど囚われてはならない。本心なのか気休めなのかは分からないけれど、ハクは今もまた私に呪文をくれた。だからもう、大丈夫だ。

そして私が今為すべきことは、彼と同じことなのだと思う。
彼が背負う祖父への罪悪感を肩代わりしようなんておこがましい考えはない。けれど、それもまた私が背負う覚悟の一端だ。

「それを知った上で、ムンドクの想いをお前に踏み躙らせたのは私だわ。だから、私はお前に謝っているのよ」

けれどムンドクに謝ることはしない。それは傲慢に過ぎるというもの。

「ーーあの人は、俺のことなんかよりも姫さんが無事で、笑って生きていくことを願っている筈ですよ」

ふわりと笑い、まるで幼子に言い聞かせるようにゆっくりと言葉を紡ぐハクはとても穏やかで満ち足りた、柔和な光を紺青の瞳に滲ませて。
祖父との確かな絆を、愛情を私へと伝えてくる。

ーー父上も、同じことを願ってくれるだろうか。もう二度と会えないけれど、今も何処かで私達を見守っていてくれているのだろうか。

「ーーそれなら、ハクは不孝者ではないわね。私はお前のおかげで今も無事で、これからも笑って生きていくわ」
「……そう、願います」
「だからハクは、傍に居てね」

小さく頷き、ハクは私の頬から首筋まで、啄むような口付けを幾度となく落とす。何だかそれが擽ったくて思わずやめてと声を上げるけれど、やめるつもりはなさそうだ。そんなこと、今までなかったのに。

ーーやはり何かが、変わったのだ。

擽ったさにくすくすと笑いながら、私は風の英雄を想う。
優しくて暖かな、そして雄大で力強い、豊穣の種子を運び来る風。
私は貴方に謝りはしないけれども。

その代わりに、限りない感謝を。

貴方に出会えたこと。沢山の愛情を貰ったこと。きっと今も私の身を案じてくれていること。
それからーー貴方の孫と共に在れるということ。

どんな形かは分からないけれど、偉大な貴方に報いたい。そのために、私は懸命に生きて笑って、沢山の努力をしよう。
そして何時か必ず貴方に会いに行こう。貴方の夢と、一緒に。

だからそれまで待っていてねと、心の中で私は英雄へと呼び掛けた。




✴︎




壁一面の障子戸を通して、朝の光がやわらかな温もりと共に緩やかに降り注ぐ、大海に面した部屋で寝台に腰掛けさせられた私は、外套のように被された上掛けを胸元まで寛げた。
取り敢えず何か着ないと。そろそろ朝御飯の時間だろうし何時誰かが部屋を訪ねて来るか分からない。

「ハク、私の服は?」
「ああ、部屋着なら箪笥に入ってんじゃないすかね」
「……昨夜は考えなかったけど、それ誰の服よ」
「だからあんたのーーてか姫さん、あんた昨夜から色々と絡んで来やがりますね。それとも何すか、誘ってるんですか?」
「誰がよ!じゃなくて何でそうなるのよ!」

思わず声を張り上げた私に、ハクは普段通りの戯けた笑顔を浮かべる。こういった遣り取りは昨日までと変わらなくて、憤りを顕にしながらも私はとても嬉しく思う。長い間に培われた気安い関係性は不変のものだと感じられ、酷く安心するのだ。

「何でって……そんな可愛いこと言われたら誘われてるって思いますよ普通」
「そんな普通海に沈めてやる!」
「そうっすか、それは残念。忠義者としては是非ご期待に添いたいと思ったんですがーー」
「一刻も早くその口を閉ざすことを期待しているわーー、……ハク?」

唐突に口を閉ざしたハクに驚きーー閉ざせと言ったのは私だけどもーー首を傾げ名を呼んだ。この人はこういった下らない遣り取りにおいて、素直に私の言葉に従うような可愛気のある男ではなかった筈だ。
非常に気不味そうな表情で私を凝視するハクに向かい、もう一度問い掛ける。

「ハク、どうしたの?私に何か付いてる?」
「……、すみません姫さん、昨夜……馬鹿な真似をーー」
「……お前、何……したの」

無性に嫌な予感がして、私は徐に立ち上がると上掛けを引きずりながら覚束ない足取りで黒檀の鏡台へと向かった。この小さな調度に振り回された昨夜の重苦しい気持ちが一瞬胸を掠め少し怯むも、これは私の物なのだと自分に言い聞かせ鏡の前で奮い立たせた足を止める。

「ーーっ!」

鏡に映る自分の姿に、私は思わず息を呑んだ。

まるで昨夜私の身を焦がした焔がそのまま灼き付いたように胸元に散る、幾つもの紅い痕。
こんなものが残せるなんてと感動を覚えた私は目を瞠り鏡を見詰めるけれど、問題はそこではなくて。

「ハク!お前これ……どうしてくれるのよ!」
「ーーすみません」
「謝罪はいいからどうにかしなさい!」

大半が髪で覆われてはいるものの、くっきりと首筋に刻まれた咬み痕。これは流石に隠し通せないし言い訳も出来ないだろう。
皆、見て見ぬ振りはしてくれるかも知れないけれど、そういう問題じゃない。

「……取り敢えず街で巻き物でも見繕って来ます」
「ーーそうして頂戴」

溜息を洩らし、私は手渡された部屋着を身に纏うと再び寝台へと腰を降ろした。
ハクは私に触れるでも近付くでもなく難しい表情でその場に佇むばかり。大方自分の失態の責任の取り方でも考えているのだろう。それとも何か、不敬罪にでも処して欲しいのだろうか。

ーー呆れたものね、お前も……私も。

本当に呆れたものだ。こんな咬み傷を残されて、対処に困りはするけれど決して嫌だとは感じない自分はもう、どうしようもないのかも知れない。

「……私、少し眠るわね。朝御飯、ごめんねってユンに伝えておいて」
「はい。午後にまた、来ますから……」
「ーーハク」

何処となく硬い表情で私の言葉に従おうとするハクを呼び止め手招きする。忘れていたわ、この人には言葉が必要だということを。

「今夜は、此処で眠れそうだわ」
「それは……何よりです」
「うん。だからーー今夜はハクが、会いに来てね」

気に病む必要はないのだと言外に告げ、私は目の前に佇む彼に笑い掛けた。
一瞬、驚いた様子で私を凝視した後、一体どんな心境なのか……少し迷うような、途方に暮れたような趣で。

「ーー御意」
「お前……!もういいわよいっそ締め出してくれるわ!」

私の心を逆撫でしてまでそんなに咎を受けたいのかと思わず声を張り上げた私へと、ハクは本当に困ったように、戸惑いを隠すこともせぬまま言を紡ぐ。

ーーハク、お前もしかして。

「……すみません。ちょっと、そのーー」

言葉を探すように視線を彷徨わせながら、何かを言い淀む様子のハクは結局それを打ち切って、それから。
紡ぐ言葉の代わりだろうか。彼の腕が伸びて来て私はふわりと抱き締められた。
緩やかに優しく降り注ぐ、この部屋を暖める障子越しのやわらかな朝の光を思わせる、厳かで静穏な抱擁。

……ああ、きっともう、大丈夫。

「まだ、言葉が欲しい?」

彼の腕の中でそっと尋ねれば、いいえ、と低く囁くような声が耳朶を打つ。
ふふ、と笑い私は重い瞼を閉じた。微かに聴こえる規則的な彼の鼓動がまるで子守唄のように心地良く響く。

「不思議な人ね、お前。私の業を引き受けようと自分の命まで盾にするくせにーー私に触れられるのは、怖いの?」
「ーー怖い……そうですね、そうかも知れません」

冗談めかした私の問いに、意外と素直に是と答えたハクはそういえば、と続ける。

「姫さんの中で、俺は随分殊勝な男なんすね」
「……違うの?そういえばさっき、誤解してるとか言っていたわね」
「いえ、折角なんで誤解なさっていてください」

さらりと衣擦れの音を立て、ハクは私からゆるりと身を離すとやわらかな、それから戯けたような笑顔を見せた。
何時もの彼の笑顔が、とても眩しく感じるのは何故だろうか。

何時もと同じだから、なのだろうか。

「姫さん、また後で」
「ーー狡いわ。教えてくれたっていいじゃない」

ゆったりと足を踏み出し部屋の扉へと進むハクの広い背中に向かい、ぽつりと呟きを洩らす。独りごちたつもりだったけれども、私の呟きはしっかりとハクの耳に届いていたようで。
扉に手を掛けたまま彼は振り返ると、やわらかな光を湛えた紺青の双眸を細め、優し気な微笑を私へと向ける。
そうして彼は、何時も通りさらりと躱すのだ。

「秘密ですよ、姫さんーーお休みなさい」





緋龍城の私の寝台の感触によく似た、滑らかな布に包まれて私は重い瞼を閉じる。

次に目覚めたら、白く煙る空の果てと煌めく海の境界線をまた、見ることが出来るだろうか。眩しく光る大海に浮かぶ船の行方を、追うことが出来るだろうか。
日が沈む頃には、黄金色に滲むこの小さな世界で、ふたり同じ色彩に染まることが出来るだろうかーー

そんなことを取り留めもなく思いながら、私はゆっくりと浅い眠りに身を委ねた。










✴︎










大地との境界に迫るほどに白く霞む、だが何処までも澄み渡る空を見上げる。
空色、という名の通りこの蒼白を他の何かで喩えることは出来ない。

ぽかりと浮かぶ白い雲に向かい、隣から華奢な腕が空へと伸びた。

「ーー届かないわ」

爪先立ちで懸命に全身を伸ばし、浮かぶ雲を掴もうとする彼女の姿が何だか幼子のようで、それは何とも可笑しく思えるのにーー封じた筈の心が騒ぐ。

「そりゃまあ、雲ってのは随分と上空にあるモンですからね。山脈の頂にでも立たねえ限り触れることなんて無理っすよ」

(ーーあんたと、同じですよ)

まるで己に言い聞かせるような科白だと、俺は小さく肩を竦めた。
ああ、雲のがマシか。あんたは遥か上空に居ながら同時に俺の隣にも立っている。手を伸ばせは容易く触れることの出来る場所に。

「ふうん……じゃあハク、私を山脈の頂まで連れて行ってよ」
「ーーあのな」

随分と簡単に、ふざけたことを言ってくれる。
俺は山脈の頂には登れない。登ることは決してない。ただ一人だけが立つことの出来る場所であんたに触れるのは、俺の役目では、ない。

「そういうのはスウォン様にお願いしてくださいよ」
「ハク、私はお前と一緒に行きたいのよ」
「……はあ、それはどーも」

こうもきっぱり宣告されると何だか妙な気分になる。これは登山の話だなんて、分かってはいるけれど。

綺麗な景色が観たいと何時もの我儘を振り翳されて、仕方なく連れて来た物見櫓に難なく登りーー登れない振りでもしろよ!あんた王女だろーー能天気に空を見上げる幼馴染をちらと見た。
風を受けて靡く、長く波打つ紅い髪は眩しいばかりの日差しを浴びて、まるで燃え盛る焔のようだ。
仄かに薫る清涼な花の芳香に誘われて俺はそっと彼女の髪に触れた。

「ハク?」
「ーーいえ、何でも」

前触れもなく己の髪に触られても彼女は怒るでも驚くでもなく、ただ不思議そうに俺を見上げた。
こんなにも無防備な姿を惜し気なく晒されるのはとても嬉しく、だが酷く切ない。

(ーーやっぱり、雲のがマシだ)

適当に言葉を濁し、俺は南東の方角へと向き直ると遥か遠く、白く霞む空の端を眺め遣った。此処からでは煌めく海も、彼女が好む極彩色の石を撒き散らしたような、鮮やかな街の姿も見えないけれど。

「山脈の頂には登れませんが、水平線なら何時かご覧に入れて差し上げますよ」
「水平線?」
「大海の果て。海と空とがぶつかり合うところです」
「ハク、お前空を翔べるの?」
「ーーまさか。水平線は海岸から眺めるもんですよ」

突拍子もない発想に瞳を輝かせる幼馴染に、自嘲交じりの苦笑を洩らし再び故郷の空へと視線を送る。
すると彼女もまた、どんな宝石よりも余程多彩な輝きを放つ紫紺の瞳に同じ空を映し出した。

こんな些細なことに途方もない快感を覚えるなどと、酷く馬鹿げた話だろう。
それから俺は馬鹿げた話ついでに、ほんの少しだけ詮無きことを思う。

もし本当に俺が空を翔べたなら、何処にだってあんたを連れて行こう。
前人未踏の険しい山の頂でも、空と海の狭間でも。
遥か彼方に横たわる、水平線の更に向こうのーー見たこともない最果ての地までだって構わない。

(ーーそん時此処に戻って来る気になるか、分かんねえけど、な)

夢見ることを赦されぬ相手にそれでも夢を見る。それは酷く滑稽なことだ。

我ながら情けないものだと自嘲しながら故郷の海を思い描く。
夕暮れ前の、黄金色に染まる海と空の境界線をあんたに見せたいと確かに思うーーけれど。

「ーーじゃあ連れて行って、ハク」

不意に腕を引かれ、請われる。逡巡する思考が凛としていながらも甘やかな声音の前に霧散した。
これは命令ではなく請願だと、疑う余地もないままに彼女の言葉が腹の底に落とし込まれるのを、俺は不思議な心持ちで感じていた。

「ーー姫、さん」
「ハクが夢見るような景色を、私も見てみたいわ」
「夢……?何故ーー」

謳うように告げられた言葉に目を瞠り、俺は思わず隣に佇む彼女を凝視した。
普段とは幾分異なる趣の、柔和な微笑を湛える彼女の見慣れた筈の紫紺の双眸に宿る光。それはまるで彼女こそが夢の中を漂っているかのようで。

「何故ってーーハクが、夢見るような瞳をしていたからよ」

ーーああ、あんたは……同じ、夢を。

ぞわり、と粟肌立つような感覚が全身を支配する。それを咄嗟に封じ込め、俺は彼女に言い聞かせるように語り掛けた。
さも俺があの光景に、海と空との境界線に夢を見ているかの如く。

「ーーとても、綺麗ですよ。眼前に拡がる空と大海は不変を思わせる……本当に、圧倒されます」
「素敵ーー素敵ね、ハク。きっと心が洗われるような、胸を打つ光景なのね」
「そうですね……」

未だ見ぬ景色に心を馳せる彼女の蕩けるような瞳の光は、普段彼女が見せている綺麗なもの美味いものを、それから彼女の想い人を眺める時のそれとは似ているようで確かに違うと、思えて。

「何時か必ず、お連れしましょう」
「約束よ」
「ーーはい」

何時かなんてそんな日は、恐らく来ないだろう。それでも。



あんたに夢を見るなど、赦されないことだ。それはとても愚かなことだ。

だが、今だけはいいだろう。
あんたが夢に飽きて、この櫓を降りるまで。



白く霞む空の果て、黄金色に染まる世界の中心に佇む彼女の姿を俺は密やかに心に描いた。










『GOLD』2. dialog and reminiscences
只ひたすらに、明日を思え。














互いの認識のズレを修正出来ないまま、終わる。
変わったことといえば、雷獣が(悪ノリ以外で)姫に触れることを怖がらなくなった……位。
でも姫に誘われると挙動不審に。退化?
まあ延々と片想いやってて、たった一晩で変わる訳がない。
てか、雷獣のATフィールド半端ないんだよ……フィールド全開なのを姫が弐号機のナイフで正面から切り裂くんだけど、何とも。

何故弐号機か。
キャラ的には被らないんですが、原作初見時、阿波でクムジが獣のようなと評した姫を見て思わず「アスカ……!」と呟いてしまったからであります。
視覚的なものだけなんですけどね。


とりあえず全然オチてないですし、また気合い入ったら続き書きます。


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テーマ : 二次創作:小説
ジャンル : 小説・文学

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拝読しました。

もん です。
二作品拝読しました。まとめての感想・コメント失礼します。

キキさんの作品は量・質ともに読み応えがあって毎回読了後の満足感がすごいです。
官能的だけど品よく美しい描写、イメージの豊かさにため息が出ます。うまく言えませんが二人がちゃんと呼んで呼び返せる間柄になったことに切ないくらい幸せな気持ちになりました。

うっとりとして読みながらも首…案の定大丈夫じゃないことになってましたね、悪気なく心配した青い子とか皆の前で言ってしまいそうな気もします笑(下世話ですみません;;)
そして両想いだけど気持ちには微妙なずれがある状態って、両片思いのすれ違いとはまた違って美味しいです。

素敵なお話ありがとうございました。


(追記:強請るみたいで申し訳ないですが以前に少し仰っていたジュドヨナ・ジェハクも好きなので書かれたらぜひ読んでみたいです)

Re: 拝読しました。

もん 様

キキですおはようございます!
ご丁寧なコメント、本当に嬉しいです有難うございます!お褒めのお言葉も恐縮です。勿体無いです(*ノ∀`*)
切ないくらい幸せな気持ちになったとのお話に、私も幸せを噛み締めております……
首の咬み痕どうしましょう(笑)悪気なく心配した青い子とか……ありそうで怖いです。天才美少年の白けた眼差しとか、見ものかと思いますけど!
それぞれの気持ちやお互いへの認識に対する微妙なズレ。これを少しずつ修正していくのがまた、両想い後の美味しいところであり難しいところですよね……!
少しでも楽しんで頂けたのでしたら何よりです。

そして、もん様はジュドヨナ・ジェハクもお好きですか!!
突発的に何か書くやも知れませんので(特にジュドヨナ)その際はお付き合いくださいましたら嬉しいです(*ノ∀`*)

有難うございました〜

No title

こんばんは、ブランシュです。感想、失礼いたします。
今回読ませていただいて、思ったこと。ヨナちゃん、女王様だし、ハク、何を考えてる?と。
やっぱり、あれだけ片思い続けてたら、いくら両思いになったからって、やはり、早々、俺の女、的な態度取れないところもあるんですかね⁇でも、反対に、何か良からぬことを考えてるようにも見えるし…。彼の心情は複雑に絡んでいて、よくわからないところが多いなぁと思います。もう少し時間が経てば、色々な部分がシックリ行くようになるのでしょうか。

そして今回、特に、感激したのは、後半、ヨナちゃんが眠りにつくところから、場面転換して、ハクの回想シーンにいくくだりです。まるで一編の美しい映画のようで……
物見櫓に上っている二人を取り囲む、きっと泣きたくなるような青い空と白い雲、流れる風。そこにいるふたり。そんな情景が頭の中で浮かび上がり、渦巻いて離れません。
ハク、姫さんにあの風景を見せることができて良かったね、その上、想いも通じ合えて、と。じわじわと温かい気持ちが読んでるこちらからも溢れ出てきて、なんとも言えなくて。本当に美しくて、心打たれる場面でした。

(それにしても、キキさんの書かれるヨナちゃんはとても強くて、毅然としてますよね。もしや、作者さんの本質が投影されているんでしょうか?)

それでは、長々と、しつこく書いてしまいお邪魔いたしました。次作、キキさんの気力が充実して、続きをまた読ませていただけるのを楽しみにしています。(ゲスいハクも!)
どうもありがとうございました。

Re: No title

ブランシュ様

キキです今晩は〜!わわ、ご丁寧なコメント有難うございました!

今回の姫。女王様ですか?まあ王女様だしとたいうことでお許しを 笑
ハクは、きっとろくでもないことを考えております。姫の想像の斜め上を、多分。

や、ハクが早々に姫を俺の女、的な態度なぞ私の中ではあり得ないっす。片想い以前に姫は主ですから(笑)その点で姫にキレられたりするのも美味しいですわね。
そういうすれ違いとその修正を書いていけたらなあと思っております。

後半の過去話、実は今回最初にこの場面を思い付きまして。
この場面ありきで書きましたので、そのように仰って頂けてほんとうに嬉しいです(*ノ∀`*)
それから。 ハク、姫さんにあの風景を見せることができて良かったね、とのブランシュさんのお言葉……。何だろう上手く言えませんが、私の気持ちが通じた心地です。
そして、姫に夢見ることが出来ないハクの、護衛としてで構わないからとの密かな夢を、ムンドクも気付いた上で姫仕様の部屋について黙認して欲しいなあと。すみませんじっちゃんに夢見過ぎです。

(あいや、原作の姫こそ強くて毅然としていると思うのですが。強い女が好きな私が惚れた姫ですから)

また、ぼちぼち書いて行きますので、よかったらまたお付き合いくださいまし(*´ω`*)

(ゲスい雷獣……何だか妄想がゲスいというよりオヤジだったり半端に病んでたりして参りました。困った!)

有難うございました!

No title

はあ~、堪能させて頂きました。

しかし、ハク。恋い焦がれた人から求められて、この状況で、まだ抑えるのか・・・!どんだけ鋼の理性なんだ。
煩悩真っ盛りの18の年で、この抑制力は本当にすごい。自分の感情を抑え、ヨナを最優先にするのが、完全に身についてしまっているんですね。

>この人はこんなにも艶のある表情をする男だったのか
もうハクの色気は反則ですね。10代であの色気では、30代・40代になったらどんなコトになってしまうのか末恐ろしい(笑)

ハクの傷のくだりがすっごく良かったです!ハクのこういう優しさが好きなんです。ヨナの心を救い上げる事にかけては天才的ですよね。
また、ハクの抑制する心を、直球でぶち壊していくヨナがかっこいい(笑)さすが姫様!

雷獣に咬み付かれたくだりは笑ってしまいました(笑)自制心の塊のような男がふと見せる欲がたまらなくかわいいですね!案の定、翌朝えらい事になってましたね(笑)

ムンドクとハクの絆がすごく好きなんです。ムンドクは本当に愛情深い人ですよね。ハクやテヨンへの愛情大全開なじっちゃんが大好きで(笑)ムンドクなら、ハクのために別荘を用意するくらいしそうだなあと思います。そして、自分なりに想いを込めるところはあったとしても、ハクの好きにすれば良いと、きっと笑って言うのでしょうね。

港町のリアルな設定にも驚くばかり。こういうのをさらっと書けてしまうなんて尊敬します。
またラストにヨナの夢かと思わせるような、過去への場面転換が美しくて。夢が叶って良かったね。ハク。

その他にも、どれもこれも切なくて胸に迫る描写ばかりで、言葉になりません。素晴らしいSSでした。

Re: No title

ひええ〜ご丁寧なコメントをほんとうに有難うございます!
楽しんで頂けたなら嬉しいです(*´ω`*)

ハクさんの鋼の理性は定評ありますからね 笑
姫を最優先にして自分の感情や欲に蓋をするのが当たり前になり過ぎてて、急に求められてもどうしていいか分からないというか(書いてる私が 笑)慎重というより臆病なのかも。
でも、ハクの展開する防御壁をその都度瓦解させる姫は書いてて楽しかったです!

30代・40代になったハクの色気……( º﹃º` )
やばいですね!もう想像もつきませんが、男女問わずでれんでれんになりそうですよ 笑

ハクの傷のくだり、反応下さって有難うございます〜
北山で負った瀕死の重症(手術有り)あの傷痕が公式で描かれなかった(企画モノのポスターで本編ではないのですが)のがどうしても腑に落ちない私としては、そう言って頂けて嬉しいのと同時にホッとしております〜
そして、ハクが可愛いと!いや、限定的な意味だとは分かっておりますが……それでも主張しちゃいますけど、可愛いですよね!時折見せる年相応の反応とか!原作読んではニヤニヤしてます〜

ムンドクとハクの絆……いいですよね。2人の血が繋がっていない事に作品中での意味があるのかは不明ですが(意味ありそうですけどね、落胤説とかありますし)ハクやテヨンが実の孫でないからこそムンドクの愛情深さが際立っていますよね。
別荘についても港町についても捏造甚だしいですが、好意的に見て下さって恐縮です。ラストの視点変更も小説としては邪道なのは承知で、でもどうしても書きたくて書いたので……書いて良かったです〜

ほんとうに有難うございました!
プロフィール

月桜キキ

Author:月桜キキ
月桜キキと申します。
数年振りに二次創作の世界に出戻って参りました。普段はしれっと会社員やってます。

暁のヨナ、聖闘士星矢(無印)を中心に、他ジャンルも時々。
NLBL混在しますのでご注意!

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